紅花の道をたどって
 ソバやカブに関しては、北アジアの原栽培地から、北回りや日本海横断のルートで東北日本に渡ってきたのではないか、と想定されている。あらゆる日本の文化は、大陸に源流があり、朝鮮半島を経て北九州に上陸し、ひとたび京都に到り、そこから同心円状に列島全域に広まっていったというイメージに、わたしたちは長いあいだ縛られてきた。しかし、最近になって、そうした文化の渡来ルートが、むしろ限られたものにすぎないことが明らかにされ、より多元的な文化渡来の道が浮かび上がりつつある。
 山形の県花である紅花の場合には、どうであろうか。紅花の原産地ははるか遠いエジプトである。シルクロードを東へ、東へと伝えられ、いつとも知れぬ古代に、中国から日本へと渡来したといわれる。山形でいつの時代に、紅花の栽培が行なわれるようになったのか、定かに知ることはできない。確認できるのはただ、近世の村山地方を舞台として、最上紅花と呼ばれる特産品が生まれるまでに、千年ほどの時間が流れていた、ということである。村山地方で作られた紅花は、最上川の舟運と日本海の北前船によって、はるばる京の都へと運ばれ、その帰り荷として、いまに伝わるヒナ人形などの京文化が、最上川沿いの河岸場(かしば)の町へともたらされた。大蔵村清水、大石田町大石田、そして河北町谷地などに、いまも残る「ひな祭り」の行事は、そうした時代の残り香のようなものかもしれない。ともあれ、最上川舟運の隆盛を背景として、河北町谷地などには、莫大な富を蓄える紅花商人が輩出したのである。
 紅花ははじめから、商品作物として栽培された。そして、河北地域は紅花の一大生産地ではあったが、じつは紅花染めの伝統はなかったといわれる。明治以降には、化繊に押されて、紅花栽培そのものが衰退していた。谷地に紅花染めが始まるのは、町起こしの一環として、「紅花資料館」が建てられた昭和五十九年のことである。それとともに、近在の農家が紅花の栽培を、いわば復活させることになった。そうして、河北町谷地では、新しい伝統として、紅花染めの歴史が幕を開けたのである。紅花の道に眼を凝らすとき、京の都の雅(みやび)の文化が静かに立ち上がってくる。ふと気が付くと、それはさらに、はるか遠いシルクロードの砂漠の風景のなかへと、わたしたちを誘ってゆく。山形の文化はみな、アジアに向けて、世界に向けて開かれているのである。