カブ漬けとソバ
 山形県内には、いまもカノと呼ばれる焼畑農耕によって、カノカブの栽培を続けている地区が、少なからず見られる。かつて、戦後間もない時期までは、県内の山間の村々のほとんどで、焼畑が見られた。焼畑は山の斜面の草を刈り、木を伐り、火入れをして焼いたあとに、作物の種を播く、古い時代からの独特の農法である。カノ型の焼畑では、カブのほかに、ソバ・アワ・マメ・アズキなどを栽培してきたが、いまではカブだけをかろうじて作る焼畑となっている。
 温海町には、焼畑でカブの栽培を続けている地区がたくさんある。そのひとつ、もっとも本格的に焼畑を行なってきた地区に、一霞(ひとがすみ)がある。ほぼ全戸がいまも、大なり小なり焼畑でカブの栽培を行なっている。地区内の加工場では、大量の赤カブ漬けが作られ、県内はむろん、県外にも広く出荷されている。一霞の種を常畑に播いて作ったカブの漬け物が、「温海の赤カブ」の名で流通しているが、焼畑のカブとは大きく味が異なってくる。石ころだらけの焼畑で栽培されるカブには、いわば野育ちの荒々しさがあり、それが独特の風味をもたらすらしい。
 山村に長く暮らしてきた老人たちから、「冬はカブと汁で過ごしたものだ」と聞いたことがある。カブがほとんど主食に準ずる扱いを受ける、たいへん重要な食べ物だったことが、そんな言葉からは知られる。カブの漬け方には何種類もあり、汁物にもなった。ある年齢以上の世代の人々ならば、子どもの頃に、おやつ代わりにカブ漬けを食べた思い出を語ってくれるにちがいない。カブがそうして、山形の食文化の重要な一角を占めてきたことは、しだいに忘却されつつある。しかし、「漬け物王国・山形」を語るためには、あらためてカノとカブ栽培の歴史に眼を凝らす必要がある。そして、山あいの村々にいまも残る、たとえば尾花沢市の牛房野カブなどは、たいへん原始的な品種としての個性を留める、まさに「生きた文化財」であることを肝に銘じておかねばなるまい。この大切な歴史の語り部が消えるとき、山形の食文化の歴史もまた、忘却の淵に沈んでゆく。壮麗な神社・仏閣や仏像ばかりが、文化財のすべてではない。暮らしのなかに息づく文化財こそが、いま、消滅の危機に瀕しているのである。
 山形は近年、ソバ所として知られるようになり、休日などにはうまいソバを求めて、県外からも多くの人がやって来る。「ソバ街道」と名付けられた、ソバの店の連なる道も広く知られるようになった。ソバによる地域起こしの試みなども見られる。かつては、このソバもまた、焼畑で栽培されることが多かった。そして、山間部のわずかなコメしか穫れない村々では、ソバこそが主食の時代が、戦後になっても続いていたことは、すでに遠い昔語りと化しつつある。ソバには貧しさのイメージが拭いがたくあるが、最近は、自然食や健康ブームのなかで、新たな価値とイメージを付与されつつある。それをたんなる流行現象に終わらせることなく、たとえば、コメの食文化とは異質な、もうひとつの東北の食文化の流れとして再評価することができたとき、ソバをめぐる風景は、さらに大きく姿を変えてゆくにちがいない。ソバが、そしてカブが、縄文時代に源を発する「生きた文化財」であることが、やがて認められる日が訪れるかもしれない。