二つの供養塔
 近年になって、置賜地方を中心として、山形県内に数多く分布が見られる草木塔にたいする関心が高まっている。「草木塔」や「草木供養塔」、また「材木供養塔」などの文字が刻まれた石塔である。多くは路傍にひっそりと、草に埋もれて立っていたが、自然の保護・保全を求める気運の深まりのなかで、あらためて発見されることになった。その思想的ないし宗教的な背景については、いくつかの説があり、定かにはしがたい。しかし、そこにはたしかに、草や木のなかにすら「いのち」が宿ることを信じて、人間たちが生きるがために消費した草木にたいして、あたかも生き物にたいするように供養を行なう人々の姿が見え隠れしている。羽黒修験の関与が想定されているが、たんに仏教的な、生きとし生けるものすべての、いわば鳥獣虫魚や草木をめぐる「悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」の思想には還元できない、たとえばアニミズム的な信仰の形が窺える気がする。
 置賜地方にとりわけ、この草木塔が数多く分布しているのは、なぜか。近世の米沢藩では、しばしば大火に見舞われ、用材の確保のために大量の伐木がくりかえされた。そこに、草木の供養という、置賜に固有の土着の思想が生まれてくる背景があったらしい。しかも、かつて木流しが行なわれた河川の流域に、草木塔は多く見いだされる。木流しとは、伐り出した木材を筏に組んで、下流にある町場へと流すものだが、危険の多い仕事であった。草木供養塔には、そうした木流しなどの山仕事にしたがう、近在の百姓衆による安全祈願や感謝の思いが託されていたにちがいない。人間はみな、自然からの恵みによって生かされている、という畏敬の感覚は、あきらかにアニミズム的なものである。それはまた、おそらく縄文の人々にも見られた自然信仰であったはずだ。
 あるいは、山形県内の、川沿いや庄内浜の村々を歩いていると、もうひとつの供養塔に出会うことがある。サケの供養塔である。遊佐町吹浦(ふくら)の十六羅漢を見下ろす、ある丘のうえに、「鮭の千本塔婆」と呼ばれる供養塔が立ち並んでいる。吹浦の沖合いは、十年ほど前まではサケのよい漁場として知られていた。サケが千本、五千本と捕れたとき、漁師らは近くの海禅寺の和尚に頼んで、この供養塔婆を立てることを習いとしてきた。サケの値段が暴落して、採算が取れなくなり、いつしかサケの定置網も姿を消した。丘のうえの草むらのなかには、木の供養塔が重なり倒れ、朽ちかけの姿をさらしている。こうしたサケの供養塔は、昔からサケ漁にしたがってきた川沿いの村々にも、点在している。鳥海山を源流とする月光(がっこう)川はかつて、東北でも有数のサケの上る川として知られた。その支流のひとつ、滝淵川の流域には、いまもサケの孵化場があり、サケ漁が続けられている。升川の採捕場のかたわらにも、サケの千本供養塔が立っている。供養の祭りは、毎年、漁期の終わり近くに行なわれている。
 サケは山形ではヨーと呼ばれ、数ある魚のなかでも、とりわけ大切にされてきた。サケのほかには、わざわざ供養の塔を立てて祭りが行なわれる例は、ほとんど知られていない。サケはまた、「サケの大助」など、しばしば昔話の主人公ともされる、特別な魚だった。東日本では、正月の歳魚(としうお)として、もっぱらサケが使われてきた。そして、このサケは縄文時代にも、大切な食糧資源とされたらしい。おそらく、サケと人間との深い関わりは、はるか数千年の歴史を背負いつつ、いまに連なっているのである。サケにたいする供養の歴史も、仏教以前からのものであるにちがいない。
 こうした草木塔やサケの供養塔のほかにも、鳥獣虫魚にまつわる供養塔を見かけることは多い。狩猟を生業として、家族を養い、生きてきた一人の狩人が、人生の終わり近くに立てた石塔を、西川町大井沢で見たことがある。「万物之霊供養」と刻まれた石の塔には、生きるために獣たちの命を捕らざるをえなかった狩人の、獣たちへの痛切な供養と感謝の思いが込められていた。人間は生きるために、自然の懐から草や木を、獣や魚を奪う。奪いながら、自然とのあいだに微妙な折り合いを付けつつ、敬虔な感謝の祈りを捧げてきた。そこに山の神への信仰があり、さまざまな祭りの営みがあった。たとえば、草木塔を現代に生かすためには、それを大切な手掛かりとして、新しい時代のなかの、人間と自然との関係を問いかけてゆくことこそが、必要なのではないか。