第3章 宗教集落の変遷

第3章 宗教集落の変遷
1 大井沢における先達と代参について

 宗教集落に入る前に、登山口の集落に必ずいた先達と呼ばれた人々の事を大井沢を中心に考察してみようと思う。
 先達とは湯殿山宝前に参詣する人を案内すること、兼ねて宝前で祈祷をする職でもある。本道寺から湯殿山に向かう参道は砂子関、四つ谷、弓張平で、ここで大井沢からの参道と合い、この間はうっそうとしたぶな林が続いていたと思われる。大井沢の大日寺までの参道は会津、米沢から茎峯峠、木川、石寺、地蔵峠、大井沢と、山形から左沢を通り月布川沿いの道で、下峠と上峠(現大井沢峠)の2つの道で大井沢に達していた。これらの道も曲がりくねりのけわしい原始林の場所であった。
 弓張平から志津、その先の石跳川付近(石跳川とは川の中の道で石を跳ねながら通ったといわれる)も同じ原始林であった。石跳をすぎ、登りつめた場所を装束場といい、ここから直下降する所が最大の難所月光下りである。月光下りは約1kmの間を岩に手足をかけて昇降しなければならない場所であり、普通なら通ることのできない断崖の道であったから、先達がなくては行けなかったと思われる。こうした事から湯殿山参道は、御宝前発見と同時に先達が必要であった。湯殿山が霊地となるにつれ、霊場として独特な先達職ができ、各口からの先達の間に必然的に約束事が発生したのであろう。それに真言作法も加わって「お山格法」となり不文律の上に成立していったと思われる。
 先達には山先達と里先達とがある。山先達は大日寺から湯殿山宝前までの案内を主目的とし、それには湯殿山格法があって、各別当寺が共通の規定をもって参詣者を案内し、参拝方法を指導した。参詣者は先達の指導の下にかたくその法を守り、自由参詣や勝手な行動は許されなかった。それだけに先達には参拝者の安全と保護の義務が負わされていた。したがって先達になるには大日寺から免許を取らなければならず、免許を取った者を先達株主と言い、坊名を名のったのである。坊名はたいてい世襲し、誰もが先達になれるわけではなかった。里先達は在郷の参詣者を別当寺まで案内するが仕事であった。
 大日寺先達には株仲間があり、これをたばねる先達頭があって円学坊が長い間この役を務めていた。その下には世話役2人をおいて頭を補佐し、仲間の世話をした。先達がもし作法を守らなかった場合は先達株を取り上げたが、大日寺では簡単い取り上げる事はなく、たいてい詫状ですませていたようである。
 先達にはもう一つの資格があった。それは先達は修験であることである。山形県では月山を拝する羽黒山、面白山を拝する山寺、葉山を拝する慈恩寺等で修験者を養成し、修験の免許を授け、たとえば羽黒山で免許を受ければ羽黒派修験と呼んでいた。大日寺の先達頭円学坊や先達の妙学坊は慈恩寺派の修験であった。又一般民衆は先達を御修験様と称していたと伝えられている。先達の自分担当の檀那場へ大日寺のお守り札の配りにも、今の郵便配達のようなものでなく、各戸毎に五穀豊穣・身体健康・家内安全・商売繁昌等を祈念しながら配札したのであるし、又民衆もこれを望んでおり、毎年やてくる修験を喜んで迎えたのである。
 しかしお山先達は実は修験本職の者ばかりではなく、又修験すべてが先達でもなかった。大井沢中村の帰宝院修験であるが、先達でもなく大日寺と関係なく独自の立場」をとっていた。先達には先祖の先達株を引き継ぎ先達となったものもあった。しかし修験と先達は不可分の関係にあったと思われる。
 先達の檀廻は並大抵でなかった。遠く会津から江戸、下総と奥州南部より関東全域に渡っていたと伝えられているからこの檀廻は冬の仕事で、夏となれば連日の山案内があるわけで、身体が丈夫でなければ勤まる仕事ではなかった。世襲であるとはいえ永続させるのは極めて困難で、時々中休みの株主も出たのである。
 しかし苦労の反面、面白いこともあったらしい。先達が檀廻に出て所定外の日数になっても帰らず大日寺からお叱りを受ける先達もあったし、家相見や病気の者には病魔退散祈祷、悪年生れ子の生長祈祷等の特技を覚えて、人の知らない喜捨を受けていた先達おあったという。その他に他郷の世間話や、文化の状況をみやげの語り草に持ってきては、話をはずませ、嫁をもらって来る先達もあり、奥地大井沢にもたらす影響は多大なものであったと想像されるのである。
 しかし大井沢にも危機がおとずれた。文政8年(1825年)より天保7年(1838年)まで12年間にわたる凶作飢饉は全国的凶荒となり道者も来なくなり、湯殿山信仰の場所も荒れ放題となり、自然的災害に苦しめられた。大井沢民と大日寺にとってはダブルパンチであった。
 そこで天保8年12月、休職中の先達を含めて一同21名が結束して自主的に檀那場の再開発に努力することを決定した。大日寺直属の檀那場米沢、会津を中心に、先達中間の檀那場分布を均一に再編成し檀廻の便を計ろうとしたおである。かつ従来の地方寺院や里先達まかせの方針を転換し、山先達が自ら檀那場に積極的に行動しようとしたのである。その結果、翌9年正月には先達職を26人に増加させ、湯殿山信仰の布教に全力をつくしそれは大井沢の経済を立ち直らせ、文久年間の大日寺の庫裏、台所の再建、惣天門の増立、参道の改修工事へと進展したのであった。
 やがて徳川幕府が滅亡び明治初年(1868年)の神仏分離令が大日寺についた同2年山先達を、5年には修験道が廃止され、大きく湯殿信仰をゆるがす糸口となった。
 これら先達衆は仏道を主とし、湯殿山が神山に確定したのは同4年(1871年)のことで、旧来の習慣や作法を変更しなければならなくなったが、参詣者は依然として古来の信仰を守っていた。同7年(1874年)8月の大日寺調査では、年間の参詣者数は会津・米沢方面より4743人、左沢・古寺方面から2393人、計7136人であった。同8年大日寺の社号を返上して湯殿山神社と改称した。
 同9年(1876年)に三島通庸が山形県令となってから県内の道路は次々と開補修されて交通路は一変し、大井沢を通る人は年々減少し、同34年(1901年)に奥羽線が山形まで開通すると、急に会津・米沢方面の参詣人はほとんど本道寺通りとなってしまった。加えて同36年には大日寺が全焼し、翌37年には中村が大火になり先達家の大半が焼けてしまった。同45年頃の大井沢の先達は檀那場廻りだけの坊となり、それも5軒のみとなった。左沢線が開通すると中村の円学、来雲、右近と桧原の式部の4坊のみとなり、最後まで残ったのは大日寺先達の円学坊で、それも昭和19年太平洋戦争終了近くにその職を辞めてしまったが、大井沢の集落には」昔を惜しむかのように坊名が残り、昔の面影をしのばせている。
 先達と講と代参との関係について見よう。遠方の人々は湯殿山を参詣し、その利益を求めようとしても旅費や日数などの都合で容易なものではなかった。それで湯殿山講という特種団体を作り、組合のような形で少しづつ金を出し合って参詣を順番にするか、又丑年を目標に積立てておく方法をとった所もある。これら団体の人々を講中と称し、寛政8年(1796年)の祈願塔に見られる福島県伊達信夫両郡の弐千人講のような大集団があった。 又、居住地で湯殿山の供養塔を建立し、常に礼拝し祈願する事も流行した。これは山形市周辺では正徳2年(1712年)の2基、置賜地域では寛政2年(1789年)の1基が最古のもので、この頃より文化・文政に至って急に増加し、明治の終わり頃まで続いた。湯殿山の信仰圏にはこれらの碑が分布し、飢饉の続く近世以降、三山の中でも湯殿山への信仰が集中した様子が分かる。
 又一方には代参塔がある。それは金を出し、毎月別当寺に代参してもらおうとする方法をとった。これを月代参といった。もちろんこれを取り持つ者は修験先達である事は当然である。代参の任務はもともと一世行人の仕事であるがこれはもっぱら別当寺ないで行い、お山宝前への参拝は山先達が担当していたのである。
 講とみられる最初は明暦3年(1657年)山形県置賜郡下長井庄荻生村で、次は貞享4年(1687年)の江戸佐内町誕生院の一団と、同5年江戸富士本院縁海行人を中心とする一団であった。現在大日寺には17基の代参塔、諸塔が残り、本道寺には3基、志津には2基の代参塔が残っている。

2 街道沿いの集落の移り変わり
(1)山形

 六十里越街道の出発点である城下町山形は行者の宿泊地であり、土産物の購入地であった。明治6年頃お資料には「八日町軒数百八十件、六・七月湯殿山参詣の行人、関東より奥州まで、道者沢山・・・。」「どの家にも五・六・七百、千人迄宿り・・・。」「わずか二か月のうちに旅人を扱い一か年の渡世となること、湯殿山のおかげにあらずや。」とあり、山形は三山道者でかなりのにぎわいをみせていたようである。行者宿は八日町に限られていたようであり、蛤屋、佐藤屋、茶屋、辻屋、鈴木屋などが有名であったと言われている。
 山形で売れた土産物は、三山の掛軸(三浦勘兵衛、現在ふすま業)、陶磁器(平清水焼)、塗物、紅、銅鉄器等であった。城下の北、下条には清水が湧き出ており、四軒の茶屋が栄えていた。八日町を出発して約一里になるので小休止場となっていたのであろう。  
(2) 白岩
 
 下条を出た行者は、途中船町で須川を渡り長崎で休憩、さらに最上川を渡って寒河江で休み、ここで昼食をすますか、または北に進み臥竜橋を経て白岩に入り、ここで昼食をとった。臥竜橋を越すと湯殿山の神域に入ったといい、新しいわらじに履きかえる習慣になっていた。山形を経由しないで帰る行者は白岩で土産物を買うことになっていたといわれ、饅頭、笠、わらじ、硯、淡雪(菓子)、五色あられ等が売れたと言われている。
 加賀屋、橋本屋は今も営業しているが、饅頭屋、富士屋は農業に転じている。他に丸屋雑貨屋など9軒の宿泊があって、一晩に200人ないし300人位も泊めていた。
 みやげを買った行者は馬で帰る者も少なくなかったので、ここにも10人位の馬子がいたが、谷地、寒河江、天童、などから来る馬子が100人位も集まってにぎやかだったという。明治6年頃より人力車が入ったが、これも最盛期には30台を超え、大正10年自動車が入るまで栄えていた。大正13年三山電鉄が出来たが、自動車は昭和5年位までは電鉄と競争していた。大正3年陸羽西線が全通すると行者の大部分が庄内に向かったので、その後は特別縁故の深い行者だけが天童駅から徒歩又は定期馬車で来ていたが、大正11年9月に左沢線が開通し、三山鉄道が間沢駅に延びてからはすっかり衰えてしまった。

(3)海味
白岩から約10km奥にあるのが海味である。上山を出発した行者はここで泊まるのが普通とされ、宿屋も9軒あったが、今では3軒しか残っていない。盛んな頃は馬子が10人位いた。人力車も18台位あったことがあるという。菓子売が10軒、あんまが20人位いたことがあった。馬子はたいてい本道寺と岩根沢の綱取までで帰ったが、人力車は本道寺と岩根沢から谷地、白岩の間を往復していた。海味泊は山形や上山で泊まったもので、天童や銀山に泊まった者は白岩泊まりが多く、左沢、谷地、寒河江等に泊まった者は海味は昼食場であった。本道寺に泊まった者は早朝出発するので海味まで来て朝食をとったようである。海味には久円坊があって、山に入るまでの里先達をつとめていた。

(4)横岫
 八聖山(横岫地内の修験道の神域とされた地域。霊域内には鉱山を司る神として全国的に信者をもつ金山神社がある。)の門前集落横岫には本道寺配下の先達が5人いた。文政3年より4軒が湯殿山行者を泊める宿屋を開業したので、天保10年本道寺は本道寺で承認した行者以外は宿泊させないことを約束させ、そのかわり、修験5軒と宿屋4軒に先達権を与えて納得させた。この内3軒は最近まで先達をしていた。

(5)本道寺
 本道寺の開基は本道寺略沿革史によると大同4年(809年)に空海が湯殿山を開基し、同年に保土内(本道寺の地)に草庵を結び月光山光明院と名付け、大日如来を本尊に祀り、従僧弘山を残して旅立ったとなっている。これは史実としては疑問であるが、参詣登山口としての本道寺は大井沢の大日寺や大網の大日坊、七五三掛の注連寺とほとんど同じ時期に形成されたものと思われる。
 寛文6年(1666年)に羽黒・湯殿両法流について勝訴した本道寺は真言宗当山派、湯殿山法流40ヶ寺の筆頭正別当、慈恩寺宝蔵院末として御朱印6石5斗を領し、多数の僧侶、山伏をようし、一大門前集落を形成した。文化7年(1810年)の宗門人別帳によると寺内に弟子11と隠居1人、下男9人の大世帯であり、この下に塔頭と称する末寺が専職坊、三光坊、梅本坊、源養坊、西蔵坊の6坊があって、清僧が住み、下男1人を従えていた。その他大弐、慶存、頼伝、三蔵、千性、重学、重兼、清村、田本、万蔵、兵部、清教、清蔵、門性坊の14件の門前と呼ばれる坊があった。これらは妻帯山伏で28人の男子と30人の女子が居住していたので全集落としては88人を数えていた。このように本道寺は隆盛し、俗に本道寺48坊と称せられたがこれは白岩以西の配下の山伏の総計である。
 この門前集落を通る湯殿山行者は4食分の落物を献上して入山許可証をもらい、定められた宿坊で夕食し、午前1時か2時頃に出発し、午前5時には志津に着き、ここで朝食をすませ、湯殿山に参詣して志津にもどって昼食し、午後5時頃までに本道寺に帰って宿泊した。このコースは本道寺から風吹川を渡り寒河江川に面する急斜面の中腹を通りながら砂子関に出て、更に椿沢を通って四ツ谷部落を経て、弓張平にて大井沢からの通路と合し志津、月山、湯殿山を結ぶものである。一方本道寺から直接月山に登り、その後湯殿山を参詣し、本道寺に帰る場合と庄内に下るものとがあった。このコースでは月山山頂までは約14kmあり、途中の休所は夫婦清水―石船―高清水―元高清水―柴明場―御立石―頂上であり、柴明場まで馬をあげ、この他はすべて清水のある場所である。これらのコースを多くの行者が参詣に向かったので本道寺は行者によって支えられた集落であったといえる。
 しかし本道寺は本坊を明治維新の兵火に焼かれ、又部落も明治35年の大火で中心部を焼失してしまったので旧観をほとんど失ってしまっている。自動車が普及し、バスで志津まで登る様になった昭和11年頃からはすっかりさびれてしまった。昭和48年頃から月山夏スキー客相手の民宿が復活していたが、月山花笠ラインの開通によりその利用客もかなり減ってきている。
 
(6)岩根沢と現在の宿坊
 日月寺のある岩根沢は六十里越街道の綱取から北方3kmに位置する海抜400mの集落である。この岩根沢は直接月山に通じる登山口であり、肘折、本道寺と共に月山東斜面の3つの参詣口の一つである。
 日月寺の成立は開基録によると、鎌倉時代の嘉禄2年(1226年)に一人の行者が岩根沢にたどりついたことから始まり、その行者は「お清水」のそばに家を作って住み、村の人々と協力して岩根沢より月山までの道を開いた。行者は後に羽黒山に行き、修業して「清蔵坊」と名のったのが、その始まりと言われている。日月寺を中心に各坊ができ、全国各地から月山に登るため多くの行者が岩根沢をおとずれるようになった。
 日月寺は寛永3年の争いのときに羽黒側の差し出した「湯殿山七口開基」によると、嘉慶元年(1387年)に羽黒末として成立したとしているので、「清蔵坊」はいわゆる開基のもとをなし、嘉慶元年になってはじめて羽黒末に入ったものと考えられる。日月寺は寛文7年(1667年)、延享元年(1744年)、天保7年(1836年)の3回火災にあっている。そのため重要記録はほとんど焼失してしまっている。現在の社殿は天保12年の再建で、間口36間、奥行22間3尺という大殿堂で、昔の面影を残した貴重な文化財である。
 岩根沢は多くの宿坊をようして、三山への案内をつとめていた。文久の記録によると本坊の別当を中心に4つの院と26の坊があったといわれる。4つの院とは、法池院(坊の葬式、仏事を司どっていた)、持性院(日月寺の方丈が隠居する隠居寺)、西光院、般若院(坊と同じく参詣人を取り扱っていた)で、26坊とは、万蔵坊、一明坊、清伝坊、徳蔵坊、文性坊、正伝坊、重善坊、大仁坊、久伝坊、秀覚坊、円蔵坊、左門坊、吉本坊、円長坊、大行坊、長甚坊、重覚坊、右京坊、叶坊、少武坊、玄性坊、民部坊、三覚坊、西蔵坊、藤本坊、竹本坊であった。4つの院には清僧が住み、坊には妻帯修験が住んでいた。各坊には祭壇があり、山伏の守り本尊である不動明王が祭られていた。遠くは京都の仏師の手によるものもみられる。昔、坊であった家には今でも祭られていて、火の神様として信仰されている。日月寺と宿坊の関係は密接で日月寺の責任で宿坊の生計は保証され、檀那場の割当や田畑の貸与が行われ、その代わり宿坊側は日月寺に薪一棚を納めていたのである。
 各坊では、冬期間は自分の檀那場(壇中)を檀廻して夏の参詣の勧誘をし、夏には多くの行者をむかえていた。行者の食事は精進料理で簡素なもので、酒も出されたらしい。行者は宿坊での祈祷や食事に対して「落し物」と呼ばれる謝礼(米)をし、夜にたいまつをたきながら水沢川沿いにむかい、尾根伝いに登り、把松稲荷―行人清水―烏川行人小屋―烏川不動―胎内岩(ここをくぐる時過去の罪をざんげし、生まれた時の清らかな身体になる)から頂上に至り、山上で御来光を拝んだのである。月山までは大変な行程となるが、月山八景などという美しい景色が語り伝えられていて、その土地々で先達によって語られていたようである。
 岩根沢の壇中は慶応2年(1886年)の日月寺の記録によると、県内―村山・置賜地方、県外―青森県の八戸から岩手県南部、宮城県と福島県の全域、関東(茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉)などに分布していたのである。特に宮城県と福島県の村々を多く壇中としており、これは現在でも変わっていない。現在は岩根沢の先達も少なくなり、5軒を数えるだけになってしまったが、昔なじみの地方からは今も御行様が来てくれている。御行様の目的は、信仰より観光に変わりつつあるようであるが、その根底には「お山信仰」が確かに流れており今も尚昔のしきたりが守られている。
 現在、岩根沢で宿坊を続けているのは、文性坊、正伝坊、伊藤坊(元重善坊)、長甚坊、軽部坊(元右京坊)である。もと26坊あった宿坊はなぜここまで減ってしまったのであろうか。
 昔は山に統制があって登山口本坊の日月寺から入山札を出し、その札を持たない者は山の茶屋、小屋に入っても食事や湯茶を出さなかった。これらは抜け参りと呼ばれていた。行者にとって山先達と入山札は絶対的な要素だったようである。ところが明治時代に入り登山参詣の制度が自由化されると、先達なしの参詣ができるようになり、先達、宿坊は大きな打撃を受ける事になったのである。その結果収入が減り、生活とのバランスがとれなくなり農業の仕事をするようになってしまったのである。また、神仏分離によって日月寺が出羽三山摂社となり、三山の中心が羽黒側に移行していくにつれ岩根沢の宿坊の機能が衰退し、先達を続ける人が少なくなったのも大きな原因である。廃仏毀釈によって日月寺の多くの仏像がほとんど焼かれてしまったのも残念でならない。
 現在も残っている坊では冬場の檀廻は続けられている。檀廻によって夏場の参詣者を集める目的は同じであるが、昔のように少人数の一団一団はなくなりバス一台が参詣者の標準になった。昔は居住地の方で講中をつくり参詣したが、現在は冬の檀廻をしなければ参詣者は来ない状況なのである。だから宿坊は昔なじみの壇中を大切にしているのである。 岩根沢からの登拝コースは本来清川通りで現在も道は整備されているのであるがこの道を登る人はめったにいなくなってしまった。ほとんどの参詣客はバスで姥沢まで行き、牛首―月山山頂―湯殿山宝前―湯の浜で一泊、翌日羽黒山に詣で、岩根沢に戻って来るというコースをとっているのである。よって岩根沢からの三山詣りは二日がかりとなり、このような点からも羽黒口からの登拝が有利になっているのである。岩根沢の宿坊はきびしい状況にあると言わざるをえないのである。
 岩根沢の西の集落、西岩根沢の片倉貞美家に代々伝わっている「六浄豆腐」という硬い豆腐がある。これは昔、京都より来た三山道者が片倉家に伝授していったもので、かための豆腐に食塩を塗り乾燥させて、その後カンナで削ったもので、ちょうどかつお節の厚くなったようなものである。水でもどしてお吸い物や酢の物の材料となるが、製法は秘伝中の秘伝で全国唯一無二のものである。現在は、山形、仙台、東京、遠く外国にも出荷されているが、昔は出羽三山道者の精進料理のかっこうの材料として珍重されていたものらしい。

(7)志津部落と月山夏スキー
 現在月山夏スキーの基地として脚光を浴びている志津部落の発生については、江戸時代慶長の頃領主大江氏が六十里越街道の警備のために扶持米を与えて7人の者を使わしたのが始まりだというのが定説のようになっている。元和9年、領主酒井忠義の代になって役料が廃止された。それのみならず租税の義務さえ負わされたので部落民は他に生計の途を求めなければならなかった。志津村民が三山道者相手の商売に専念し、あるいは村山地方から移転される特産品に課税して村の収益をはかったりしたのはこの頃からではないだろうかと思われる。
 寛永以後は、特に本道寺や大井沢大日寺と協定してその方面からの道者の宿場として特別な権利を得てきたようである。寛永6年、本道寺側と羽黒側の訴訟の際に本道寺より「湯殿山月山詣之通路並古は志津村と甲十四軒之在家本道寺の門前にて御座候、其上水不為自由之併為其札与永銭壱貫文宛元来於今御公儀に納置候」と寺社奉行に申述べている。又、大井沢妙学坊文書にも両者の密接な関係を物語るものが沢山ある。「明和五年四月志津村金剛杖伐賃一本に付壱銭づつ受くべく許可に及び譲り受く」、「寛政八年七月、大日寺、志津村物価高価となり道者賄差詰り因りて米三表を給す」、「寛政十二年十二月、物価高価となり、志津村民昨年通り道者宿賃を増銭せんことを希う。大日寺之を許可す」「文政三年三月、志津村焼失に夕詰百六十六丈、朝詰百四十六丈とされんことを大日寺、本道寺に希う。依って許す」「嘉永七年三月、志津村民道者賄方に差詰り、大日寺より金弐拾両借用す」などである。
 明治初年の神仏分離の際、本道寺大井沢にも三山社務所が設けられ、三山行者一人につき2合5勺づつ支給されていた米と、18銭取立てていた茶代の取立を廃止されたので、志津では三山敬愛会を組織し独立した登山口として競争する態度を示したが、両者の協定によって、
1.志津では直接参詣人を取り扱わず、又独自に神符を発効しないこととし、その代わりに本道寺、大井沢より登る行者には昼食を携帯させずに志津に差向けること。
1.途中の宿泊は一切認めないこと。
1.志津の旅籠賃は米三升五合以内で毎年両者協議して定めること。
1.本道寺、大井沢両社務所より年々8月に七拾円だけ志津村に補助を与えること。
などを約束したのだった。
 明治初年までは十四戸の部落のほとんどが道者関係の商売を営み、昭和20年頃は道者の減少とともに、ほてい屋、つた屋、仙台屋、大和屋、えびす屋の5戸に減ってしまった。 その後この地は昭和25年9月に磐梯朝日国立公園に指定され、翌26年四ツ谷川の支流ウバ沢の源頭付近に姥沢小屋が避難小屋として建てられた。36年10月には月山国設スキー場が指定され、39年4月には国民宿舎月山荘がオープンしたがこの頃は道路が整備されておらず、スキー客はまだまだ少なかったようである。
 ここで月山夏スキーについてふれておこう。これは月山の独自の気象と地勢がもたらす豊富な残雪を利用するもので、きびしい冬が過ぎ平地では新緑が盛りとなり、全国各地のスキー場が店じまいする4月上旬に月山スキー場がオープンするという全国でも例をみないものである。
 39年から40年にかけて月山道路が自衛隊の手によって切り開かれ、44年5月、月山リフトが開通されると志津部落は夏スキーの基地として一躍脚光をあびることになるおである。この翌年、県のPR効果もあってか観光バスを臨時に五台も走らせる程、志津に夏スキー客がやって来たのであった。当時は5軒しか旅館を営業していなかったので、スキー宿をその他の一般の民家にも宿泊させた程だったという。その後、志津全戸が宿泊業及び飲食業の認定をとったのである。現在志津地区には、国民宿舎月山荘、五色亭、仙台屋、清水屋、三山、しづ、つたや、ゆきしろ、柏屋、大和屋、米沢屋、ほていや、えびすや、まいづるやの13軒の旅館と国民宿舎がありその収容力は約800人である。
 45年頃からはリフトの基点である姥沢地区いスキー客用のロッジや山の家が建てられるようになった。45年には、ほていや山の家、ロッジやつなみ、黒ゆり山荘がオープンし、翌46年には姥沢駐車場が造成され、48年には、つたや山荘、笹小屋、三山山荘「、えびす屋山荘、ロッジ柏屋がオープンし、姥沢小屋を含め計9軒の山荘が営業を始めた。これらの収容力は約600人である。
 志津地区お旅館は通年営業となっているが、姥沢地区の営業期間は4月20日頃(月山道路の除雪終了)から8月のお盆頃までで、営業内容は5月から8月中旬までのスキー、5月中旬から10月までの弓張平でのテニス、5月から10月までの登山・ハイキングなどがあり、それにこの地区ならではの春の山菜料理、秋のきのこ料理が色を添えている。姥沢地区の営業期間中にはピークが3回あり、1回目は5月のゴールデンウィーク、2回目は6月の第1日曜日頃、3回目は7月末の夏休み開始の頃であるという。特に6月の第1日曜日の混みは毎年決まっての事だそうで、5月連休の頃と同じくらいの賑わいをみせ、スキー客の車が姥沢駐車場に入りきれず、志津入口の弓張平駐車場からスキー客をバスでピストン輸送させた年もあったおである。
 このように夏山スキーで賑わいを呈している志津であるが、オイルショック以後の昭和50年頃からはスキー客はほぼ横ばいか、漸減の傾向にあるようだ。
 西川町役場商工観光課の月山スキー場の客の入れ込み数の統計によると、50年の23万2千3百人をピークに以後は約20万人程度に落ち着いている。特に54年は雪が少なく全体で17万人となっているが、雪の量や天候の状況などがかなりの影響を及ぼすものと思われる。尚スキー客は県内を除いては関東地方が最も多くなっている。姥沢地区はその地のりから電話、電気の導入が遅れ、電気に関してはそれまでは自家発電であったのだが、57年7月電話普通地域に入れられ10月ようやく電気が導入された。
 古来、白衣の道者や旅人が往来した六十里越街道は、最も難所とされた30kmの区間を昭和56年大小44の橋と9本のトンネルをもって月山花笠ラインとして生まれ変わり山形県の大動脈となっているが、その裏側で志津地区はかなりの痛手をこうむっている。志津地区は花笠ライン開通以前の主要道である112号線沿いにあり、しかもこの道路はかなり屈曲した道路であったため、庄内から来る人の都合のよい休憩地であり、思いがけない宿泊者もかなりあったという。しかし花笠ライン開通以後はこの道路は旧道となりほとんど車が通らなくなり、以前のような宿泊者は激減してしまったのである。姥沢の山荘はスキーの固定客があるため、あまり影響はでていないが、それでも開通以後は近県からの日帰り客が増えているとの事である。 
 これからの志津の課題は、第1にスキー場の整備と輸送力のアップ、第2に温泉を掘り出し、温泉地として売り出すことである。これはまだ調整中なのでなんともいえない。それから弓張平レクレーション基地の整備とタイアップしえ、行楽地としての魅力を増そうとすることである。これらの計画の実現によって志津地区は西川町観光の中心として発展していくと思われる。

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