第2章 湯殿山信仰と六十里越街道

第2章
1 湯殿山信仰の発達
 
 第1章に示したとおり、近世の庶民信仰で最も普及していたのは湯殿山の信仰で、お山参りといえば、三山の中でも特に湯殿山参詣をさすほどであった。
 湯殿山は延暦4年(785年)に弘法大師によって開かれた霊場と伝えられているが確かではない。おそらく、かなり古い時代に修験者によって開かれたとみられ、しかも羽黒修験との関係が深いようである。「湯殿山別当之開基長」によると、七五三掛注連寺は天長年中(824〜833)、大網大日坊は仁寿2年(852年)、北側の肘折阿吽院は明徳元年(1390年)、東側岩根沢日月寺が嘉慶年中(1387年〜1388年)、大井沢大日寺が応永2年(1395年)、本道寺が大永5年(1525年)と、湯殿山の西側が最初に開け次第に東側が開けたこといなる。湯殿山信仰を高めその大衆化を計ったのは、大井沢の道智上人である。応永2年(1395年)頃大日寺を拠点として湯殿山参道を二度にわたり開削し、置賜、山形方面から大井沢までの参道を開いている。西村山地方西部から西置賜にかけて道智の開基したという寺が多く、この地方を中心に布教に専念したとみられる。こうして湯殿山が盛隆するようになると、その現世利益と未来成仏の信仰が世間に広まり、三山の中でも特に信仰を集めるようになったのである。
  湯殿山の開山については、羽黒山でとなえる能除仙説、真言四ヶ寺のいう弘法大師説、真言四ヶ寺側の一つとして他の三か寺と行道をともにしながら、内には道智和尚開山説を持してゆずらかった大井沢大日寺の立場がからみあっているが、主尊を大日如来とし、垂跡を大山祗命とする点および湯殿山参詣をもって三山参詣の成就とする点では一致している。そのような信仰をうむ母胎となったのは、溪間の行き止まりというか、うっそうとした樹林の中に鎮座し、熱湯をしたたり流す一大岩石の神秘さにある。しかもそこには薬師如来の垂跡神としての少彦名命や、大黒天と習合されているだけではなく、神道では冥界の主宰神ともみられている大国主命なども鎮座するとされている。
 湯殿山信仰の泥臭さは、つぎのような事にあらわれている。一つは熱湯のわきでる巨岩そのものを大日如来と拝しながら、道者はそのあと、岩の上にあがって湯の沸きだす穴を拝むのである。仏体と拝したものの上に乗るというようなことは、一般的な常識や普通の信仰からいえば、神仏に対する冒涜である。しかしここでは、これによって仏と衆生は一体になった。仏性わが身に入り、われ仏の中に融合す、という入我、我入、即身成仏の理が実証されたとみるのである。
 もう一つは岩供養という形で示される生まれ変わりと再生の信仰である。御神体のそばに仏供養といって死者の亡霊をまつるところがある。今は仏供養という仏教語にかえて霊祭というのであるが、そこには参詣者がたずさえてきた死者の戒名の書いてある紙片や位牌、遺骨などが納められ、五色の紙を用いてつくった梵天が立てられる。そこは小さな洞窟になっており、常に水滴がにじみでているが、死者の霊魂はこの水によってけがれを去り、罪垢を清められて、人の世に生まれ変わってくると信じられているのである。このように生々しい信仰を今も持ちつづけている例を、私は他に知らない。そのうえ、この少洞窟をお蔵と呼び、お蔵に大黒、弁財天と唱えて、現世における福徳円満を祈り、巨岩からわきでる熱湯を薬師如来と仰いで、少彦名命と拝し、熱湯の流れる岩を釜にみたてて、その下には火の燃えているかまどがあると考え、「お裏に三宝大荒神」と拝むのである。さらにこの岩の中央部には明らかに人手の加えられている長方形のくぼみ穴があり、それを見た多くの人は女陰を連想し、口にだして女陰の岩と呼んだ人もあったというが、これあるがゆえに「惣而此山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず」(奥の細道)ということになり、先達は参詣道者に対し、「他言は堅く禁制でござる」と申しわたしたのである。また真言密教の両部神道の立場から、湯殿山を胎蔵界の大日如来と仰ぎ、熱湯を流してそそり立つ巨岩を陽根とみたてて金剛界の大日如来のシンボルを観想し一形に陰陽二形をそなえるところから、金胎両部の大日大霊権現とあがめるようになったのである。 貞享2年(1685年)大日寺亮海が大井沢口の登拝道を整備して以来、参詣者は更に増加するようになった。こうしたなかで、羽黒山と湯殿山別当真言四ヶ寺との対立が表われてくる。まず別当天宥の率いる羽黒が天台に改宗、肘折阿吽、岩根沢日月寺を配下とし、寛永16年(1639年)真言四ヶ寺をも配下に収めようとし、寛文5年(1655年)以降は両造法論(天台宗東叡山末の羽黒山と湯殿山4ヶ寺とが登拝の流れをめぐって対立した事件)で争い、寛政3年(1791年)以降は湯殿山高札一件で争った。これは三山の中でも湯殿山が信仰の中心であり、信者からの収入が多かったという背景も考えられる。以後湯殿山は真言の山として、羽黒修験もここに入会修業することになった。元禄2年(1689年)6月には芭蕉も湯殿山に参詣したが、湯殿山は東国における信仰の中心として、神仏分離期までその隆盛が続いたのである。

2 六十里越と六十里街道

 今日、この二つの街道を全く同じものと思っている人が多いようであるが、よく調べてみると・・・・もっともこの道筋で小部分の所が重複している場所もあるが、大井沢の大日寺と朝日村大網にある大日坊との距離は約十里(40km)。したがって昔はこの道筋の大部分の峠といった難所は志津から大網間の険しい山岳地帯であった。これがすなわち正式な六十里越なのである。ただしこの道路は名前が示すように実際六十里などある長い峠ではないのであって、これは6町を1里とする中国流の里数で数えたもので、我が国では織田信長の時代に36町を1里と決めた。したがってこの計算でゆくとこの距離は10里で360町あるから、その6分の1、60町となるわけでこれをキロで計る今日まで旧幕時代の呼び名をそのまま六十里越街道とよんでいるのである。
 六十里越道路の道順を示すと大日寺から村の北端を通り抜け、大越川の橋を渡って八幡坂の急坂を登り弓張平に出て北進し、志津部落に入りさらに仙人嶽の南西尾根を大きく迂回して大岫に出る。(ここは大越川と庄内方面に流れる川との分水山領でこの峠の最高所である。西村山郡と庄内の境界)ここを下って笹小屋に至り、多層民家の立ち並ぶ部落として有名な田麦俣を経て大網の大日坊に達する道路である。
 この道路はいつの時代に、誰が造ったかは明確でないが、応永24年(1417年)に大日寺中興の恩人といわれる道智上人が置賜から地蔵峠を越えて大井沢に入って来た。上人は月山の霊峰を目前に遥拝できるこの地を終生の聖地と定めると、大日寺興隆の為にまず道路を整備し、更に御堂を建て生来の健脚をもって全国遍歴して信徒を招き、湯殿山を奥州第一の霊場にのし上げるバックボーンをを築かれたのである。この時代、湯殿山来詣者の為に自らこの峠の道路改修に当たったのであると伝えている。
 次に六十里街道であるが、出羽三山参詣人が福島、山形、仙台方面から参詣の際、長崎、寒河江を通って白岩、海味、綱取、水沢と寒河江川の清流に沿って本道寺に至り、更に砂子関、月山沢、四ッ谷を経て弓張平に登りここで大井沢方面からの道と合流して北進、志津から玄海志津、石跳川に至るものである。
 なお途中綱取部落の追分(ここで行者は本道寺口と岩根沢口とに振り分けされて登拝した)より岩根沢を通って月山に登るか又、本道寺よりただちに月山へ登って降りるかの道順をいうのである。
 街道沿いの宗教集落は後で詳しく考察することとして、次に湯殿山参詣の登拝路と行場をみてみることにしよう。

3 登拝路と行場

 月山(1980m)の西南姥ヶ岳に続く山塊がある。その北側を流れる梵字川の源頭近くに湯殿権現が鎮座している。信仰の主体は前述した通り、巨岩とそこから湧出する温泉である。主尊は大日如来、垂跡神は大山祗命。一帯は湯殿山の霊域で一切の人工を禁じたから堂社はなく、自由参拝は許されず、先達によってきびしい戒律のもとに参詣が行われたのである。
 御堂前に至る登拝路は2つある。大網、七五三掛口の庄内側からと、本道寺、大井沢口の内陸方面からのものである。後者に月山から下るコースが合流する。
 庄内側からの登拝路は、旧六十里越街道を利用している。大網、七五三掛を基点に、関谷を経て賽神峠(茶屋)まで登る。ここから田麦又に下る途中に弘法大師の伝説のある柳清水がある。田麦又に番所が置かれ、行者を宿泊させる7軒の宿屋と茶屋がある。蟻越を経て弘法茶屋に上る。更に独鈷の清水(茶屋)を経て護摩壇に至る。護摩壇石を称する拝所がある。やや平坦となり拝所御神仏を越え笹小屋に着く。注連寺、大日坊の泊賄小屋が置かれ、両寺が満員の時、ここで休息、食事をする場所であった。やがて仙人沢に入ると注連寺、大日坊の番人泊小屋があり両寺発行の手形改めが行われた。ここから霊域で拝所が続く。十数か所の拝所がある。更に鉄格子を登り御堂前に出る。ここに御秘密八大金剛童子を初め五つの神仏が祀られている。いずれも密教系の仏が多く、湯・谷・水・山・滝などが信仰の対象で修験の特徴を表している。登拝者は御堂前で賽銭をまき、初穂を納め熱湯の流れる巨岩を拝し、誦呪念仏三昧の勧行をするのである。
 内陸側登拝の拠点となったのは、六十里越街道の番所が置かれた志津である。ここに大日寺、本道寺の賄小屋がある。五色沼の中に金仏大日如来が祀られ弁天社がある。家数20軒、全て行者関係の宿屋・茶屋で、夏期には笹小屋も建てられる。志津からは北進して石跳沢を渡るコースで「姥ケ岳通り最上本道」と称される。まず馬立で六十里越街道と分かれ、湯殿山境内に入る。やがて懺悔坂にかかると沢登りとなり、行者は禊をして石跳に上がる。玄海の大日寺、本道寺行人小屋は東の方にある。最上装束場に至ると拝所姥神がある。行者は白衣を整え、新しいわらじと履きかえる。ここに横道が入り、本道寺高清水通り、岩根沢清川通りに連なる。更に進むと羽黒装束場があり、姥月光、水月光の急坂を下り御堂前に出るのである。これらの通路はなだれ、がけくずれ等で毎年のように道筋が変化し、先達の案内によって幾通りもの道が出来たが、大筋の変化はなく、明治以後も行者達は御堂前に登拝したのである。以上の四ケ寺口から湯殿に登拝すれば、その日の内に各口へ帰ることができた。こうした利点から行者の8割は湯殿四ケ寺口から、2割は他口を利用したと伝えられている。
 湯殿山には、仙人沢、玄海に湯殿行を勤める行場があった。ここに真言四ケ寺所属の行人がいて修業をした。周峰修業と異なり、五穀断等の不食行を行い水垢離をとり御堂前い参拝するのを日課とし、大日如来と一体となることを目指す修業であった。行人は一千日以上にものぼる修業の上、海号を許され、山篭行者とも称された。そして、強い信仰心から即身入定仏となる行人もいた。文政6年(1832年)の行人掟に、山篭一千日中は別当所以外の他出を禁じ、在俗の信仰を大切にし、注連宝冠だけの白衣を着用して世俗と異なる修業を続けた。仙人沢祈祷所付近に、これら一世行人の碑が40基程残されているが寛延3年(1743年)8月の注連寺即身仏の鉄門海上人の碑が古く、昭和32年9月の佐藤保行人の一万日があり、明治以後の碑が半数を占め、信仰の根強さが分かる。
 玄海は、志津から北2kmの所にあり、幕末に山篭行者北辰海上人によって行屋が営まれたといわれ、本道寺、大日寺支配の行人達が御堂前に日参する際の休憩所となった。この地は湖沼が点在し、行人が水垢離をとった沼にはその名が付けられたという。こうした登拝路と行場は近世初期までに整備されたとみられ、三山の中で独特の形態をもつに至ったのであろう。

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