第1章 山岳信仰の起りと三山参り

第1章 三山信仰の起りと三山詣り

 天空高くそびえる雲上の峰々。人跡未踏の深山幽谷の霊気にふれた古代の人々は、その峰々に神々が宿っているものと信じ、そこを神域とし現在己が犯している罪、穢れを清めはらう神聖な場所と考えていた。又、人間が死ぬとその霊魂は深山に移り住み、そこから常に我が子孫の繁栄を見守っていてくれるものと堅く信じ合っていた。従って深山に宿る神と祖霊とは同一体だとするいわゆる日本の古代信仰は、人間が神の宿る山から魂をもらって現世に生まれ、死ねば又魂は山に帰るという信仰であった。このようにして山岳信仰は全国的に波及し育っていった。つまりこれがいわゆる日本固有の神祇信仰なのである。 やがて時は移り変わっていく奈良朝の初期にインドから中国を経て渡来した仏教によってこの信仰が大きく変わってきた。すなわち僧侶は仏教の布教を容易にする為にこの神祇信仰と仏教とを結びつけ神も仏も同じであるとして神道と仏教を調和させようとした。これが宗教の歴史で有名な神仏混淆というものである。
 古代から連綿と続く山岳信仰を母胎として成立した神仏の教えを悟る修験への道、これに専念修行する山伏は、平安時代に入って天台・真言の密教が最澄・空海という天才的僧侶の出現によってますます隆昌を極めた。これら宗派の僧侶達の中には、仏の道に志を立て、寺院で修行を積んだが真の仏の教えの真髄に達することができず、結局里の寺院で学問的に教理経典を学ぶだけでは仏の道に志を立てた行者として満足できない。自らの肉体を苦しめ、都の雑踏は仏の悟りを得る修験の妨げになるため真の修行は聖山聖水に身を置き、静寂にして身の引きしまる環境においてこそその道に精進できるというものである。したがって天台宗派は比叡山へ、真言宗派は主に高野山へその修行の道を求めたのである。出羽三山の修験は羽黒派に属し、冬期でも登拝可能な羽黒山を基盤に湯殿山・月山と地理的に回峰修行のできる東北唯一の霊場で、日本六十余州の内、東国33か国がその勢力範囲で、残りは西国24か国が紀州熊野派の修験場、九州9か国は英彦山派修験の場であったと伝えている。修験道という独特の教派は以上のように、深山幽谷で肉身を苦しめ、荒行を続けることにより人間的欲望を払い、神仙化した超人間になることが最後の理想で、その苦行の結果は不思議な霊力が生じ、その祈祷と呪術によって自然界の天変地異を予言し疫病を駆逐し、あらゆる災厄から除かれるというものである。
 羽黒派修験道を成立せしめた背景は出羽三山の古代から続く山岳信仰によることはいうまでもない。古代山岳信仰を典型的に保ち続けているのは標高1980mの月山である。月山は庄内平野の東、山形県の内陸部とを境にする丘陵山脈の主峰である。特に村山平野より望んだ場合、平野の稲をみのらせる水の供給源でもあり、六月の下旬中腹に里雪が現れると山形盆地の農家の人々はこれを合図に田植を始めることをならわしとしていた。
 農家の人々は朝夕に遠くそびえたつ雄大な月山を望み見ては、その日の天候を占い作物の出来、不出来に心を悩ませ月山の神を拝んだのであった。 
 「お山詣り」というのは本来出羽三山を回峰参拝することであるが、江戸時代になってから湯殿山詣りを「お山詣り」というようになった。参詣者は行者又はお行様と呼ばれた。「お山詣り」をするには参加する善男達が〇〇講を造り、行屋に篭って一週間の間斉戒木浴の修行をつむのである。男子は15歳になると無事息災である様にとの願いから、何をくりあわせてもお山詣りに参加させるならわしであった。これを「初お山」又は「初詣り」といった。この修行期間中は家族も同様に精進料理をとり、口説論争等をつつしみ尚無益の殺生をさけるのであった。いよいよ出発するときは家を清め、屋上には御幣を立てた。行者は白衣に身を包み、ワラジ脚祥をつけ笠とござを持ち、ござには住所氏名の外、天下泰平・五穀豊穣・諸願成就・家内安全等と書き食料や奉納する五穀、みがき銭等を背負い、八角の金剛杖を手にした。又先達は頭布、袈裟、懸依、法螺貝、笈、念珠等を身に付けた山伏の装いで、出発は多く夜間または未明である。タイマツを先頭として講中の人々が村人の見送る中を先達の法螺貝を合図に威風堂々とくりだしていくのである。
 出羽三山は東北地方は勿論のこと、広く関東、信越地方の人々にも信仰されており、これらの人々は幾日か宿泊を重ねた後、関山峠、二口峠、笹谷峠、金山峠を越えて山形領内に入り、領内では山形、漆山、長崎、寒河江、白岩、海味、本道寺等に宿泊した。これらの行者は、一般に徒歩であったが中には馬を利用する者もあったといわれる。行者の宿泊は毎年4月から始まり旧盆には最も盛況を極めた。特に丑年は蜂子王子が御山を開いた縁年に当たり、平年の10倍もの参詣者があったという。従って宿泊人数も非常に多く、1軒の宿屋で200人〜300人となることもあったといわれている。8畳間に15・6人も収容したが、盛んな時にはそれでも足らず土間に小屋掛けしたり、又は物置まで利用して収容した。さらにあふれた者は付近の法印や寺、民家に分宿された。夜具もいたって粗末なもので座敷にゴザを敷きつめ、それにごろ寝して、上に掛け布団をかけるだけであったという。枕等は四角な木枕でそれさえも全部へ行き渡らなかったこともあったという混雑ぶりであった。
 宿料はだいたい三升分に相当し、一升分が米代、一升分が副食物・薪代その他の諸掛り料で、残り一升分が宿の儲けであった。食事は豆腐、油揚げ、こんにゃく、あらめ、きのこ等を使った精進料理で決して魚気のないものばかりであった。又昼飯としては、握飯2個に香物をそえて渡した。宿屋では単に食事と寝所の世話をするだけにして酒や餅菓子などの欲しい人達の為に酒屋、菓子屋が宿屋の片隅に出店を開いた。夜になると家ごとに堤燈がともされ、夕飯を終えた団体が街道に出て踊りを踊った。行者はお山参りに際して、多くの親類、縁者から餞別をうけてきており、帰途には土産物を持ち帰らねばならなかったので土産店も大繁盛した。白岩では宝暦の頃、旅館11軒に対して土産店が22軒もあり、名産の淡雪、五色あられ、まんじゅう等の菓子類の他、硯、ワラ工芸品、三山の掛軸等が盛んに売れたという。
 谷地大町念仏講帳の享保18年丑年の記録に、「一、丑之年、湯殿山の参詣、毎度沙汰致よりは存外参詣有之、花ぞめ下地前々丑年より商内罷成候。白岩より奥山内は拾年計は寝て喰程にまうけ候由及承候。八口道は都合五万七千余有之候由、扱いに夥敷事に御座候。」とあるが大変おもしろい記録である。
 昔、湯殿山の御縁年の丑年にはお山詣りは格別多かったものであるが、享保18年の丑年には白岩山内は拾年間も働かずに生活できる程もうけたというのだから、話を半分に割引きしてもたいしたものだったと思う。
 三山の民間信仰が盛んになった原因には色々伝えられているが、仁寿3年(853年)この地方に痘瘡が非常に流行した時、月山の月読神の神託があったことから参詣者が激増したということや、天喜5年(1057年)源頼義が三山に祈願して阿部氏を亡ぼしたので、その神徳に感謝して三山を陸奥、出羽、信濃、越後、佐渡の総鎮守と崇めたことから一般の信仰も高まり、参詣者が激増したということなどが伝えられている。三山のうち初めは月山信仰が主であったが、後に湯殿山信仰が非常に盛んになり、その全盛だったのは、やはり江戸時代の享保から文化文政の頃だったようである。
 三山道者の分布を見ると、志摩、飛騨、備前の三国をのぞいてほとんど全国にわたっている。三山への登山口は八方7口といって7つあった。羽黒口、注連寺口、大網口の西側の3つは比較的古く、平安の初期に開かれ、岩根沢口、肘折口、大井沢口、本道寺口の東側4つは南北朝以降に開かれている。それぞれの登山口には本坊、宿坊などの宗教集落があり、多くの修験者が居住していた。里先達に導かれてきた行者はまず定められた宿坊を経由して本坊に参詣、ここで入山許可証をもらわなければならない制度になっていた。真夜中に宿坊を出発した行者達は口々に「ザンキ、ザンゲ、ロッコンショウジョウ、慙愧、懺悔、六根清浄」ととなえ、山先達に連れられて山路の難行路を登っていったのである。ようやくにして月山、湯殿山にたどり着いた行者達は本望を達った感激と嬉しさをかみしめ、全魂を神に捧げ身体堅固、家内安全、商売繁盛等の祈願をしたのであった。

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