はじめに

はじめに

 山形県の中央部、月山南西の山岳地帯をほぼ南北に貫通する六十里越街道は西の紀州熊野と東の修験道のメッカ出羽三山と共に、平安時代の昔から行者の信仰が厚く、江戸時代に入って全盛を極めた宗教道路として栄えた道である。
 時代の移り変わりによる歴史の流れとともに道の価値観は年とともに変わってゆくが、長い間にわたって内陸ー庄内を結んで産業、文化を運び、人々の足跡を刻み込んできた歴史の通り道ともいえる六十里越街道。特に湯殿山参詣の行者がこの道を利用し、それによって街道沿いの集落は参詣口や宿泊地として宗教集落を形成し発展していったのである。 「六十里越街道に集落があれば店と宿屋がある」と近藤侃一氏が著書「六十里越」に述べられているが、たとえば本道寺は「一夏十万石」ということばが残っているようにかつては48坊が行者宿として繁栄をきそっていた。
 しかし交通網の発達、特に鉄道・バス・自家用車の普及によって宿坊は大正以降衰退の一途をたどり、現在宿坊としての機能をはたしているのは岩根沢の5坊のみである(内陸側)。
 六十里越街道も東北横断自動車、通称月山花笠ラインにとってかわり、難路であった湯殿山への道も極めてスピーディーに通れるようになったのである。又、この道路の開通によりこの地の観光がクローズアップされ、県の大規模レクレーション基地構想の一端に加えられた事も注目に値する。
 時代は変われど六十里越は歴史の道であることに変わりはない。道路沿いにみられる数々の石塔が人々と信仰の道の長い歴史を物語っているようで、私の心をとらえずにはおかない。故にここでは湯殿山と内陸側の宗教集落と六十里越街道の関係を、歴史地理的に考察していきたい。

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