[ カテゴリ(映画作品解説)へ戻る | ←← | →→ ] [ カテゴリ(映画作品解説) | 記録日(/) | 登録日(1985/01) ]
ミッチーのほぼ日記

孔雀夫人(1936) Dodsworth

カテゴリ: 映画作品解説
(登録日: 1985/01/09 更新日: 2024/02/22)


サミュエル・ゴールドウィン 白黒 101分
監督 ウィリアム・ワイラー 脚本 シドニー・ハワード 原作 シンクレア・リュイス
出演 ウォルター・ヒューストン、ルース・チャッタートン、ポール・ルーカス、他

この解説は、『ワセダ・フィルム・ライブラリー(アメリカ映画・トーキー期 1930―1949)』(1985年,早稲田大学大学院文学研究科)掲載原稿を転載したものです。(執筆:前川道博)
 

解説


 数々の名作を手がけたウィリアム・ワイラー(1902〜81)が、サミュエル・ゴールドウィンと専属契約後,『この三人』(1936)に続いて監督した作品。

 フランスのアルザスに生れたワイラーは,ハリウッドの大プロデューサーであった叔父のカール・レムリを頼ってユニヴァーサルに入社し、レムリの秘書をつとめた後監督に転向,無声期からB級西部劇や短編を監督した。トーキー初期の作品『砂漠の精霊』(1930)、『北海の漁火』(1931)等で既に名声を得ていたが,ゴールドウィンに移籍後の約10年間は、ワイラーがその芸術的才能を最も遺憾なく発揮した時期である。同時に,彼にすぐれた原作=脚本を提供し,彼の手腕に全幅の信頼をおいたゴールドウィン(1884〜1974)のプロデューサーとしての才識を見逃すべきではないだろう。『この三人』『孔雀夫人』『大自然の凱歌』(以上1936),『デッド・エンド』(1937),『嵐が丘』(1939),『西部の男』(1940),『偽りの花園』(1941),『我等の生涯の最良の年』(1946)と,ゴールドウィン専属時代の作品は,他社で監督した作品『黒蘭の女』(1938),『月光の女』(1940),『ミニヴァー夫人』(1942)を含めても寡作と言えるかもしれないが,冷淡とも思える着実な演出ぶりは当時のハリウッド映画においても異彩を放ち,いずれの作品もが野心に富んだ試みと高水準の成果を示している。

 『孔雀夫人』は,シンクレア・リュイスの小説の映画化で,同じ原作の戯曲化に当ったシドニー・ハワードが脚色,舞台で主人公サム・ダッズワースを演じたウォルター・ヒューストンが映画でも主演した。

 脚色に関し,ハワードは「舞台劇としてよりも,映画として,原作の主旨をよりよく盛込み得た」(『キネマ旬報』1937年5月11日号)と語っているが,果して結果はどうであろうか。公開当時の批評をみると,『ニューヨーク・タイムズ』(1936年9月23日付)では,「作家の真摯さで彼の劇を映画に脚色した」が,「劇の連続性,性格描写,会話といった彼の着想に軽く負って,彼の劇を映画向きのパターンに転換していない」とし,ワイラーの「(劇を)映画的語法で実現する技量」と演技指導の方にむしろ批評の重点を置いている。また清水千代太は,「一場面一場面が,少し過褒に傾くが,生きた人生の断片とも言える,嘘のない――少なくとも芝居的な嘘のない情景から成っている。これは脚本が当を得たこと,俳優の良かったこと,にも勿論困るが,ワイラーの熱情が熾んに燃えていたからである,と思う。」(『キネマ旬報』前掲号)とし,脚本の良さを褒めながらも,最終的にはワイラーの演出をさらに高く評価している。

 そのワイラー演出であるが、彼の演出の確かさは,俳優の演技指導は言うに及ばず,先の批評でも触れられた「映画的語法」に対する技量,すなわち,映画形式に内在する表現の可能性をまさに「劇」の一点に向けて引き出し,機能させた技量に認めることができる。

 この作品の演出における最も顕著で中心的な戦略は,空間を観客にとって読み易くするためにカメラがそれを超えてはならないとされるイマジナリー・ラインの,まさにその直線を画面の〈タテ〉(前後方向)にとった奥行きのある空間の利用に見出すことができよう。もっとも基本的なデクパージュは,ハリウッドの慣習的なコンティニュイティの原則に従っているように見え,人物相互のカットバックが多用されるが,その場合も,カメラは各々イマジナリー・ラインの線上すれすれの位置に配置されるというように入射角度が極めて鋭い。また人物の位置関係明示の手だてとなる,相手の人物側からの肩越しの撮影は殆どなく,カメラは個々の人物にほぼ正対する。但し,位置関係の混乱は,人物の動きに合せたパン撮影による空間的連続性の保持と,空間的様相のタテ線への収斂手段(前後へのカメラ位置の転換,人物の動きに合せた前後への移動,人物や劇的効果を生む意匠の前後への配置)によってかろうじて避けられている。こうした空間的戦略が,劇的効果を生み,劇の緊密度を高める仕掛けとして役立っていることは言うまでもない。
 

物語


 ダッズワース・モーターズの社長サムの引退の日である。旅行の荷造りをしていた妻のフランは,工場から帰ったサムを優しく出迎え,長年の労をねぎらった。サムは既に巨万の富を得,娘のエミリーを嫁にやったのを機に,妻の切なる願いを入れて,20年来打込んできた事業をやめ,ヨーロッパ旅行を思いたったのである。ダッズワース家を訪れたサムの旧友で銀行家のタビーは,既に他社へ譲渡した工場に特別待遇での留任を勧めるが,サムにはむろん意志をかえる気はなかった。

 船出の日,タビー夫妻が2人を見送っているところへ,新婚旅行先から娘のエミリーと婿のハリーが馳けつけ皆を驚かせた。夫妻は4人に見送られて,アメリカを後にした。船室での夫妻は,新婚旅行以来の幸福な時を満喫した。夕食時,サムが喫茶室に入るとロッカートと名のる男が彼に話しかけてきた。サムは少し遅れて来たフランに彼を紹介し,一緒に食事をした。何かと戸迷いの目立つサムに対し,社交上手なロッカートにフランは心を動かされた様子だった。
 ほどなくフランとロッカートは親しくつきあうようになった。彼とダンスに興じていたフランは,サムが英国の燈台が見えるからと甲板に誘っても興味を示さず,そそくさとホールに戻ってしまった。その時,傍にいた女がサムに話しかけてきた。女はエディス・コートライトと言い,離婚した後,イタリアで暮したいと願っていた。サムが彼女と歓談して寝室に戻ったのは,フランがロッカートからの誘惑をやっとの思いで振切った時だった。フランは,サムに自分が恐いと救いを求めた。

 パリに到着して以来,フランは,ベナーブル夫人,自称財政家のイズラン,オーストリアの貧乏貴族クルト等と知合いになって社交を楽しみ,サムは妻と別行動をとることが多くなった。フランの誕生パーティーの晩,サムは上機嫌で来客をもてなした。皆が去るとサムは,パリを発ってヨーロッパを廻ろうとフランに提案するが,反感を買い,さらに彼女が夏,スイスのモントルーの別荘へ行く約束をしたと聞かされショックを受けた。やむなくサムはアメリカへ帰る決心をした。
 エミリーは,故郷のゼニスに帰ったサムを駅に出迎えたが,1人帰った父を心配した。スイスの別荘では,フラン,タルト,イズランの3人が夏の休暇を楽しんでいた。イズランは,フランに好意を寄せていた。サムは,妻のいない家では何かと勝手がちがい,いらいらすることが多かった。サムは,フランに電報で帰国を促したが,彼女からの返信で帰る意志のないのを知ったサムは,再びヨーロッパへ船出した。

 サムは,フランをピアリッツから呼んでパリで落合った。サムには思惑があり,イズランも呼びよせておいた。フランは,予期せぬイズランの出現に驚くが,イズランに誠意がないのを知り,素直に夫に謝罪した。
 ゼニスの病院では,エミリーが無事赤ん坊を出産した。ダッズワース夫妻は,ウィーンのホテルでその知らせを受け取ったが,フランは,クルトが迎えに来ると,そそくさとダンスに出かけた。踊り疲れて夜遅く帰ったフランは,クルトから結婚を申し込まれたと告白し,離婚したいと申し出た。突然の妻の告白にサムは返す言葉もなかった。再び一人旅をはじめたサムは,ナポリのホテルで偶然にも未亡人のエディスと再会した。サムは,エディスに招かれるまま,海辺にある彼女の借家に寄宿することになった。教養の高いエディスは,サムをよく理解し.サムも彼女に心の安らぎを覚えた。

 ウィーンのホテルに,クルトの母が訪ねて来た。老夫人はにべもなく2人の結婚をはねつけた。母の前で狼狽するクルトに失望したフランは,ナポリにいる夫に電話をかけた。ナポリの家では,サムはエディスに新しい航空事業の夢を語っていた。2人はお互いをなくてはならない存在に感じ始めていたが,電話を受けたサムは,あっさりと妻と帰国する返事をした。サムは長い夫婦生活の義務としても妻を許してやらねばと思ったのである。涙ぐむエディスと別れて,サムは再び米国行きの船に乗った。しかし,プランのうわついた言動には何の後悔もみえなかった。忍耐も限度に来たサムは,出帆間際,今まさに降りようとしていたタラップへ飛び移った。エディスが家から港の船を放心しながら眺めていると,一隻のモーターボートが近づいて来た。ボートから手を振るサムに気づいたエディスは,欄干に乗り出して大きく手を挙げて答えた。
 
[ カテゴリ(映画作品解説)へ戻る | ←← | →→ ] [ カテゴリ(映画作品解説) | 記録日(/) | 登録日(1985/01) ]
[ ホーム| ]
[ LinkData『ミッチーのほぼ日記』データ一覧マップを見るRDF(Turtle)RSS1.0形式テーブルデータ(TEXT) ]
前川道博ホームへジャンプ