| 長大前川ゼミ:地域の記憶 上田市の町名の由来
地域: 上田  (登録日: 2016/10/11  更新日: 2019/05/21)
 町名における暗黙のルール
| 町名の「町」の言い方には、「ちょう」、「まち」が混在しています。
 それには理由があります。
 侍が住む町は「ちょう」、商人が住む町は「まち」と分けられていました。
 
 (編集者 4班 88)
 
 |  鷹匠町(たかじょうまち)
| ▼01 鷹匠町の説明 | ▼02 鷹匠町の道祖神 | ▼03 鷹匠町 |  
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| 鷹匠町
 
 真田氏によって造られた城下町のうち、
 城の南東に鷹匠の住居として造られた町。
 
 真田氏の後、仙石氏の時代、寛文3年(1663)の記録に、
 「鷹匠其の他、扶持人の屋敷42軒」と記されている。
 (鷹匠町の説明板より)
 
 |  原町(はらまち)
| ▼01 原町 | ▼02 原町 | ▼03 原町 | ▼04 鷹匠町 |  
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| 原町
 
 天正11年(1583)に、真田昌幸が上田城を築き城下町造りを始めました。
 このとき、真田氏と縁の深い原之郷(現真田町本原)から住民を移住させて造った商人町です。
 また、原町は海野町とともに、上田城下町のうち最初にできた町です。
 (原町の説明板より)
 
 |  横町(よこまち)
| ▼01 横町 | ▼02 横町 | ▼03 横町 | ▼04 横町 |  
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| 横町
 
 海野町が発展するにつれて、旅籠屋・商家職人などが増加したために、海野町から南に折れた
 街道筋にできた横の町から、横町と呼ばれたことに由来される。
 この町は北側にも延びて鍛治町に続く。
 横町と鍛治町には寺が多く、城下町の防備のためといわれている。
 (横町の説明板より)
 
 |  大手町(おおてまち)
| ▼01 大手町 | ▼02 大手町 | ▼03 大手町 | ▼04 大手町 |  
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| ▼05 大手町 |  
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| 大手町
 
 天正11年(1583)上田城築城のあと、大手口から二の丸の道筋に造った武家屋敷の町で、
 新参町(しんざんちょう)と呼ばれ、仙石氏、松平氏時代には、上級武士が住んでいた。
 戦後になって大手町と改名された。
 (大手町の説明板より)
 
 |  紺屋町(こんやまち)
| ▼01 紺屋町 | ▼02 紺屋町 | ▼03 紺屋町 | ▼04 紺屋町 |  
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| ▼05 紺屋町 |  
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| 紺屋町
 
 天正11年(1583)上田城築城のあと、真田氏と縁の深い海野郷(現東御市)から、
 紺屋(染物屋)を移して造った町。
 宝永3年(1706)には、紺屋が10軒あった。
 後に、上紺屋町と下紺屋町とに分かれた。
 (紺屋町の説明板より)
 
 |  柳町(やなぎまち)
| ▼01 柳町 | ▼02 柳町 | ▼03 柳町 | ▼04 柳町 |  
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| 柳町
 
 柳町は、原町と紺屋町をつなぐ街道筋に、旅籠屋や商家が軒をつらねるようにしてできた町。
 町名は、町筋に柳の木の多さによるという。
 文化元年(1804)この町には呉服屋が25軒もあって、賑わっていた。
 (柳町の説明板より)
 
 |  房山(ぼうやま)
| ▼01 中央5丁目(房山) | ▼02 大星神社里宮 | ▼03 大星神社里宮 | ▼04 大星神社里宮 |  
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| 房山
 
 房山(望山)は古くは東太郎山のことを指したが、
 永正3年(1560)には太郎山麓一帯の地を房山と呼んでいる。
 天正11年(1583)上田城築城時、真田昌幸が城下囲八邑(村)の一つとして重視し、
 屋敷割りを行い、山麓に散在する住民を移住させたのがこの町の始まりです。
 (房山の説明板より)
 
 |  鎌原(かんばら)
| ▼01 鎌原 | ▼02 鎌原 | ▼03 鎌原 | ▼04 鎌原 |  
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| 鎌原
 
 真田氏が城下町造りを行い、さらにその周囲に城下囲八邑(村)の一つとして、
 屋敷年貢を免除し太郎山麓に近い新屋等から移して造った村。
 上田城築城時の古地図にも、新鎌原と記されている。
 (鎌原の説明板より)
 
 |  蚕影町(こかげちょう)
| ▼01 蚕影町の説明 | ▼02 蚕影町 | ▼03 蚕影町の道祖神 | ▼04 蚕影町 |  
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| ▼05 旧常田館製糸場 | ▼06 旧常田館製糸場の煙突 |  
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| 蚕影町
 
 明治21年に完成した「上田停車場」の下に眠る「蚕影神社」から由来される。
 この周辺は一面桑畑だったが、明治33年に小県蚕業学校(現上田東高校)が出来上がると、
 通学路として賑わった。
 また、常田館ができ、製糸業が盛んになると、蚕の道(シルクロード)として全盛期を迎えた。
 (蚕影町の説明板より)
 
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