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郷土の英雄・安田義定

安田義定の伝説

安田氏: yasudaarchives
(登録日: 2006/10/10 更新日: 2018/11/23)


 平成17年NHKの大河ドラマ「義経」の人気により、奥州平泉など全国各地の源義経のゆかりの地が観光ブームとなっております。その義経を助け、源平合戦をともに生死をかけて戦った甲斐国(山梨県)の勇将がいたのをご存じでしょうか。
 その勇将は、現在の山梨県山梨市を拠点とした甲斐源氏の有力な武将であり、遠江国を支配した安田義定公です。源平合戦では、義経と行動をともにし、大将格として平家追討に大きな功績をあげ、源頼朝の鎌倉幕府創建に大きな貢献をしたのです。しかし、その最期は義定の台頭を恐れた頼朝の猜疑心のために、親子ともども謀殺され、同じく頼朝により謀殺された義経と同じ無念の運命をたどったのでした。

 郷里山梨では、同じ甲斐源氏の武田信玄の功績の陰にかくれて義定の功績はあまり知られることもなく、山梨市下井尻に遺された義定主従の墓所も、県下有数の規模の大きさを誇りますが、今では地域でも忘れられた存在となっています。このため、NPO地域資料デジタル化研究会では、郷土の大切な記憶として関連事績をまとめることとしました。
(NPO地域資料デジタル化研究会デジタルアーカイブプロジェクト)
 

安田義定の功績


 安田義定は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、現在の山梨県山梨市小原の市老人健康福祉センターあたりに館を築き、現在の山梨市から甲州市にかけての地域を統治した甲斐源氏の勇将である。
 源平合戦では、源頼朝を助けて、源氏を勝利に導き、鎌倉幕府創建の立役者となった。

 甲斐源氏の祖は源義光である。義光は清和天皇皇孫である源経基王より三代目源朝臣頼義の三男鎮守府将軍、八幡太郎義家の弟で、新羅(しんら)三郎義光と名乗った。近江国園城寺(三井寺)の新羅明神の社前で元服したので新羅三郎と名乗った。義家、義光兄弟は、平安末期やはり鎮守府将軍だった父頼義に従って、陸奥の国で豪族の安倍一族、清原一族と、後三年の役を戦った。その後義光は京都に戻り、刑部丞(ぎょうぶのじょう)、常陸介(ひたちのすけ)、甲斐守を歴任し、常陸国、甲斐国で子孫を扶植し、それぞれ佐竹源氏、甲斐源氏の基となった。

 甲斐守に任命された義光は、若神子の館(北杜市)に住んだと言われ、その三男刑部三郎義清は旧任地である常陸国武田郷(勝田市)に住んで、武田氏を名乗った。その長子清光が濫(らん)行を理由に朝廷に告発され、親子ともども甲斐国市河庄(市川大門町とも言われる)に配流されたという。しかしながら、経過は不明であるが、結果的に清光は、甲斐の国を支配し、子を要所に配した。

 清光の長子光長は逸見筋(北杜市)を領し、逸見太郎と名乗った。その双生児である信義は、甲斐源氏の統領を継ぎ、武田太郎信義を名乗る。これが甲斐武田氏の始祖となる。三男遠光は、加賀美遠光を名乗り、その子長清は小笠原氏を名乗った。四男義定は、安田郷(山梨市)を領し、安田三郎義定を名乗る。以上が甲斐源氏のはじまりとされる。
 
 山梨市の前身である日下部町史(昭和26年刊)、雲光寺略史によると、甲斐源氏始祖の中でも、盛んに武威を現わしたのは安田三郎義定であった。
 義定は、甲斐国逸見郷若神子(現在の北杜市)で長承3年(1134)に生まれ甲府盆地東部の安田庄(山梨市)に舘を築き、安田姓を名乗った。安田館の位置は現在の山梨市老人福祉センター辺りを基に東西2キロ、南北1キロの長方形の地型と言われる。安田館のほか中牧(山梨市牧丘町)に小田野城を構えていた。

 義定は、保元3年(1158)館の鬼門方向にあたる井尻の地(山梨市下井尻)に菩提寺として、雲光寺を開創し、常陸国から真言の僧都了寿阿闍梨(あじゃり)を開山として招いた。地域開発面では、市ノ瀬高橋の黒川金山で砂金採集事業、牧之庄(山梨市)での軍馬飼育に力を入れるなど、同族内にあつては、頭角を現わしていた。

 後に義定が遠江守に任ぜられてから、元暦元年(1184)安田一門の菩提寺として放光寺(塩山市藤木)を開創している。甲斐における義定一族の領地は、安田庄から、遠江国まで拡大していった。
 

源頼朝の同盟軍としての甲斐源氏


 鎌倉幕府創建に先立つ源平合戦は、治承4年(1180)5月、後白河上皇の皇子以仁王と源頼政が平家打倒のために挙兵したときから始まる。以仁王は、東海、東山、北陸三道諸国の源氏に「早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事」と令旨を下した。
 以仁王の令旨により、伊豆国流罪となっていた源頼朝は舅である北条時政の援助を得て同年8月17日挙兵したが、これに付き従うもの数百人という小勢だった。志気は高かったものの、石橋山の戦いにおいて、平家方の大庭景親に破れ、海路安房に逃れ、再起を図ることとなった。

 一方、甲斐の国の源氏一族も以仁王の令旨により頼朝が決起したとの知らせを受け、8月中に平氏討伐に動いた。甲斐源氏の統領である武田信義、その弟の安田義定である。それぞれ隣国の駿河国、信濃国に侵入し、平家方の軍を打ち破った。これが甲斐源氏が、名声を世にとどろかす最初のきっっかけとなった。

 9月には、信濃の木曽義仲が平家方の小笠原頼直を討って越後国に侵入した。9月中旬になって、頼朝の使者として、頼朝の舅である北条時政、義時父子が、武田信義の協力を求めて甲斐にやってきた。この時、源平合戦に向けて、時代が動き始めたのである。
 重要な歴史的視点は、この時点では、源頼朝、武田信義、木曽義仲いずれも、同じ清和源氏の正統の血統として対等の立場にあったことである。頼朝は源氏嫡流とはされていたが、流罪で配流地にあり、不遇の身であった。

 8月末、伊豆の石橋山合戦で惨敗し安房に逃れていた頼朝は、下総の豪族・千葉常胤や上総介広常らの支持を得て、勢力の回復を図っていた。しかしながら、頼朝の軍勢は、大半がもとは平氏方の武将であり、急ごしらえの気心も知れない混成軍であった。これに対し、武田、安田等の甲斐源氏は、一族のまとまりの上に立った厚い勢力基盤を持っており、源頼朝が圧倒的な軍勢を要する平家の東征軍を迎え撃つには、甲斐源氏との同盟が何よりも重要であった。

 北条時政の要請により頼朝と甲斐源氏の同盟が成立し、10月半ば、武田信義、その子一条忠頼・石和五郎信光らの武田一族をはじめ、安田三郎義定、逸見冠者光長ら甲斐源氏の兄弟衆で構成する二万余騎が駿河に到着した。主力の頼朝勢は既に黄瀬川に布陣していた。10月18日、甲斐源氏の軍勢は先陣を務め、富士川をはさんで平家の軍勢と戦うこととなった。富士川対岸には、京から進発してきた東征軍の平維盛、忠度勢が布陣し、ここに源平合戦の第一幕が始まろうとしていた。これが有名な富士川の戦いである。
 
 10月21日の夜半武田信義、安田義定をはじめ甲斐源氏の軍勢は、平氏の背後に忍び寄った。この時、富士沼(現在の浮島ケ原)の水鳥の大群が軍勢の動きに驚き一勢に飛び立った。この羽音を大軍の夜襲と思った平氏軍は、あわてふためき、敗走し、総大将維盛は、そのまま京都へと逃げ帰ってしまったという。

 この戦いの成果は大きく、甲斐源氏による緒戦の勝利が鎌倉幕府への道を開いたのである。吾妻鏡によると、合戦直後の翌21日には挙兵した武将たちの軍議により、平氏を追って京に攻め上る前に、関東の守りを固めることとなり、武田信義が駿河守護、安田義定も遠江守護につき、甲斐源氏が中心となって前線の守りを固めることとなった。

 安田一門の菩提寺であった放光寺(山梨県塩山市)の著名な郷土史研究家である清雲俊元氏は、放光寺ホームページ「鎌倉幕府と安田義定」の中で、以下のように、源平合戦の初期においては、甲斐源氏は頼朝より軍事的に優位にあったことを述べられている。

 「この時代は平清盛の全盛時代であって、甲斐国にあっても、加賀美遠光、武田有義、秋山光朝、小笠原長清等のように平氏に仕えていたもの、武田信義、一条忠頼のように木曽義仲と通じているものもあったが、最後に武田信義、安田義定の意見によって一族が富士川に集結した。この戦いは一般に物語では頼朝の総指揮のもとに行われたように伝えられているが、実際に頼朝は四月に石橋山の戦いで完敗し、北条時政が頼朝の使節として甲斐に入り応援をもとめていることからしても甲斐源氏は頼朝、時政より優位にあり、現在歴史家の間では、この富士川の戦いの主導権は甲州の人達にあったとみるべきではないかとしている。水禽の羽音に驚騒したこの戦い、先鋒は安田義定であった。」

 鎌倉幕府の正史的な書物である吾妻鏡では、合戦の翌日頼朝は、本領を安堵したうえで、義定を遠江守護に、武田信義を、合戦の論功行賞として、駿河守護に各々任じたように記述されているが、実際はそうではなかったようだ。その当時の情勢から見て、清雲氏は「(富士川の合戦は)安田義定、武田信義ら甲斐源氏による独自行動であった。その結果、安田義定は遠江国、武田信義は駿河国の一部を占拠したのである」(山梨日日新聞掲載「源頼朝と甲斐源氏」平成17年8月掲載)と指摘している。つまり、実際には甲斐源氏が武力で平家が支配していた遠江、駿河を奪い取ったものである。頼朝は、甲斐源氏の武力により平家の逆襲から、関東を防護してもらうために、甲斐源氏の専断に同意せざるを得なかったのではないかと見られる。

 一方、朝廷も源平合戦の当初においては、安田義定を源氏の統領と見なしていた時期があり、実際に義定は寿永2年(1183)7月、平家追討使として東海道より上京し、8月には正式に遠江守に任ぜられ、さらに従五位下に叙ぜられている。このとき木曽義仲は北陸道から平家追討使として上京しており、わずかな期間であるが、義仲と義定が京において、追討使として連携しながら活動していたのである。

 その一方の頼朝と言えば、この時点では、朝廷から反逆の罪で伊豆に配流されたままの流罪人であり、領地も郎党もなく、源氏の御曹子とはいっても源氏を統率する立場ではなかった。この時点での源氏の勢力分布は、都に木曽義仲、安田義定が平家追討使として源氏の統領格で駐留し、その一方で、頼朝は、都よりはるか遠くの鎌倉で、朝敵の汚名を背負ったまま、義定に後れをとった状態に置かれていた。従って、天下を目指す頼朝にとっては、義仲と義定の同盟という悪夢に直面しており、自らの野望がはかなく潰えてしまうかもしれない崖っぷちに立たされていた。

 しかし、鎌倉で焦燥の日々を送っていたであろう頼朝にとって、幸いなことは、義定は実直な武士であり、天下取りの野望を持っていなかった。これに対し、頼朝は、武家政権という野望実現に向けての天性の策略家であった。
 その年(寿永2年)10月、頼朝に、またとないチャンスがやってきた。
 木曽義仲の都での狼籍に対して、安田義定が抑止力にならなかったことから、朝廷は頼朝に上洛をうながしてきたのである。

 清雲氏によると、この要請に対して頼朝は「十月宣旨」を条件に引き受けた。この寿永2年の十月宣旨というのは、東海、東山両道の国衙領、庄園の年貢の調達権を与えよというもので、この頼朝の外交政策が功を奏し伊豆配流いらいの勅勘が解除され、従五位下に復帰し、源氏の棟領にのしあがったのである。
 この時点では、義定は既に従五位下の官位と遠江守に任ぜられていたので、朝廷内の立場は義定が頼朝とは対等ということになるが、「十月宣旨」を機に、天下取りの野望を持つ頼朝と義定の二人の立場は一変した。

 木曽義仲の狼藉事件というのは、この年大飢饉が都を襲い、人々は飢えと病気に苦しんでいた。その中で、義仲の郎党は掠奪に走り、都の民や公家の恨みを買っていた。義仲は朝廷の政治にも介入し、後白河法皇と衝突していた。法皇は義仲追討の宣旨を出し、頼朝の上洛をうながしたのである。

 頼朝は、朝廷との交渉で「十月宣旨」の有利な条件を引き出すと、直ちに弟の範頼・義経に木曽義仲追討軍の編成を命じた。範頼の配下は、武田信義・加々見遠光の甲斐源氏、その他千葉、稲毛、金子、山口などの武将をつけ、義経には、安田義定、大内、猪俣、岡部などの武将を配し、西上させた。
 このとき義経26歳、義定 51歳。この出会いをきっかけとなって、義経を中心とした「平家追討主力部隊」が形成され、新しい武家政権を勝ち取る原動力となった。

 年が明けて、寿永3年(1184)1月20日未明に義経軍は、宇治川を渡り、義仲軍の根井行親らの武将を一気に撃破し、都に突入した。義仲は、六条河原の義経軍の包囲を破り、勢多の残軍兵力と合流しようとしたが、範頼軍の追撃にあい、粟津で討ち死にした。31歳だった。実際に義仲の首をあげたのは、義定軍勢の働きだったとも言われている。
 

義経と安田義定との深いきずな


 義仲の軍勢を打ち破った源範頼と義経兄弟が宮中に参内し、後白河法皇から平家追討の院宣を受けたのが1月29日。義仲追討選の疲れを癒やす間もなく、源氏の軍勢は直ちに平家追討軍へと態勢を整えた。
 源氏軍は引き続き、大手攻めの大将が源範頼、副大将に武田有義、搦手攻めの大将が源義経とし、安田義定は副大将格で義経を補佐することとなった。

 しかし、この編成は資料により諸説があり、源氏軍は源範頼・源義経・甲斐源氏安田義定の3軍編成だという説もある。大手攻めが範頼で、搦手攻めが義経・義定の連合軍だったというのである。義定を大将とする軍勢には長男の義資も付き従っていたと思われる。いずれにしても、両軍は、義仲が都で乱暴狼藉に時間を費やしているうちに、勢力を盛り返した平家を福原で挟撃することとし、兵站補強を行った後、総攻撃を2月7日と決めた。

 範頼軍は、5日京を出発、翌6日には生田川に布陣して総攻撃に備えた。搦手の義経・義定軍は4日に京を出発し、丹波路を迂回して福原の西方にある一ノ谷を目指して進軍した。5日夜、一ノ谷の途中にある要衝の地・播磨の三草山に到着。平家軍は平重盛の子・資盛、有盛兄弟ら軍勢が布陣していたが、7日の総攻撃が迫っている義経・義定軍は、かまわず一気に奇襲攻撃をかけ、油断していた平家方は総崩れとなって潰走した。

 義経・義定軍は、さすがに5日夜は仮眠を取り、翌 6日朝には敗走する平家軍を追って播磨・三木あたりまで進軍した。義経は、軍勢を安田義定ら7千騎と土肥実平(畠山軍という説もある)3千騎の二手に分け、自ら土肥の軍勢を率いて鵯越(ひよどりごえ)から一ノ谷に向かった。一方の7千騎の安田義定部隊は明石を迂回しながら一ノ谷の西側から平家軍を攻撃することとなった。
 義経は6日夜、鵯越からわずか70騎のみを率いて、地元の猟師の案内で、一ノ谷の陣営の背後に回りこんだ。

 一谷合戦は、予定通り7日早朝、熊谷直実父子と平山季重の先陣争いで、始まった。安田義定軍も戦闘に加わり、一谷で源平の総力を挙げての戦いが展開された。
 この源平両軍の死闘を、一谷の鉢伏山(神戸市須磨区一谷町)から見下ろしていた義経70騎は、断崖を馬もろとも逆落としに駆け下り、一谷の平氏軍の背後を奇襲した。これが有名な義経の「一谷鵯越の逆落とし」であった。これにより、平氏軍は大混乱に陥り、海へと敗走していった。以後、平氏は敗走を続け、壇ノ浦に消えていった。

『吾妻鏡』では、源氏軍は源範頼・源義経・甲斐源氏安田義定の3軍編成で、各軍が一ノ谷合戦で討取った平氏軍の大将を記述しているが、おおよそ以下のようであった。(カッコ内は討ち取った武将)

●源範頼軍が討ち取った平家の大将
平通盛(佐々木盛綱)平忠度(岡部忠澄)平経俊
●源義経軍が討ち取った平家の大将
平敦盛(熊谷直実)平知章(児玉党)平業盛(比気四郎)平盛俊(猪股則綱)
●安田義定軍が討ち取った平家の大将
平経正(河越小太郎重房)平師盛(河越小太郎重房、畠山重忠)平教経

 この一ノ谷合戦において、安田義定は、義経と功績を分ける偉大な英雄であったことは間違いない。その後の壇ノ浦までの合戦の功績により、義定の遠江守に加え、長男の義資が越後守に任ぜられている。

 だが、安田家父子が朝廷に認められた英雄であったことが、源頼朝にとって絶対に容認できない脅威であった。頼朝は、自らの権威を脅かす可能性のある有力武将を次々に抹殺するというテロリズムで鎌倉幕府の政権を確立していった。平家追討の最大の功労者は範頼、義経、義定の3人である。頼朝はその功労を認めざるを得ないがゆえに、3人を謀殺した。歴史の悲劇としか言いようがない。
 

義経、そして義定の屈辱と甲斐源氏の無念


 甲斐源氏の勢力拡大を恐れた頼朝は、源平合戦の早い時期から甲斐源氏の棟梁である武田家の圧殺に取りかかっている。
 伏線は養和元年(1181年)、後白河法皇が武田信義に命じて頼朝を討たせようとしているという風聞だった。富士川の戦いで敗退した平氏が、源氏側の撹乱工作を図ったものではないかと思われる。しかし、頼朝は早速、信義を鎌倉に召喚して追及した。詮議をうけた信義は鎌倉殿に弓引くことなし、と起請文を提出。信義は、武田一門の無実を誓ったという。

 しかし、頼朝は、寿永3年(1184)2月7日源平合戦一ノ谷の戦いが源氏軍の勝利に終わると、元暦元年(1184年 4月に改元)6月16日、武田信義の嫡子・一条忠頼を鎌倉に呼び寄せ、殺害してしまった。忠頼は甲斐源氏2代目の棟梁だった。彼の勢力が大きくなって、頼朝に反逆しようとしているという讒言(ざんげん)を頼朝が聞きつけ、処刑を命じた。忠頼を御所に招いて酒を飲ませ、その酒宴の最中に背後から突然斬り殺すという残酷なやり方だった。その惨劇は頼朝の面前で行われ、頼朝は黙ってそれを眺めていたという。

 頼朝はその一方で、木曾義仲から人質として鎌倉に差し出させていた義仲の子の清水冠者義高を4月末に殺害していた。義高は、頼朝の娘大姫の婿であったから、大姫の悲しみと怒りははげしく、そのまま病身となり、大姫は失意のまま、その後二十歳そこそこでこの世を去ったという。

 この事件は頼朝にとって、甲斐源氏を押し込める周到な作戦の一環でもあった。頼朝は清水冠者義高の残党が甲斐・信濃両国で陰謀ありと口実をつけて、5月1日大軍を甲斐に送り込み、武田氏を監視下に置いた。そのうえで、6月に忠頼を惨殺した。これにはさすがの甲斐源氏も全く反撃できなかった。信義は忠頼の死から2年後の文治2年(1186年)3月、無念のうちに病没したという。

 頼朝が陰謀をもてあそんでいた元暦元年(1184)6月の情勢を見ると、源平合戦がまだ決着がついていたわけではなく、むしろ平氏追討の勝利に向けて源氏のいっそうの結束を固めるべき時期にあった。この源平合戦の重要な時に、頼朝は平家と戦っていたのではなく、鎌倉で源氏の有力武将を相手に卑劣な権力闘争を戦っていた。

 頼朝は一条忠頼の惨殺で満足したわけではなく、さらに甲斐源氏武田一族を分裂させる陰謀を実行した。忠頼の末弟である信光や信義の弟の小笠原長清を依怙贔屓して、それ以外の武田一門を疎遠にするという方法である。
 忠頼から棟梁を継いだ武田有義も、鎌倉の御所に呼び出され、満座の中で頼朝の剣持ち役を命じられた。有義はあまりの恥辱に耐えかねて、御所から逐電した。有義の惣領としての権威も傷つけられ、武田一族に対する統率力も失われることになったという。
 さらに信義の三男板垣兼信は駿河大津御厨、遠江双侶荘を領地として、源平合戦では大活躍していたが、文治5年(1189)讒言を理由に所領を没収され、建久元年(1190)隠岐に左遷されてしまう。
 こうして武田氏の名跡は、頼朝に臣従する石和五郎信光が継ぐことになる。

 頼朝の武田氏封じ込めは成功し、次の標的は源平合戦で戦功をあげ遠江守を務めていた安田義定に絞られた。だが、甲斐に金山を持ち、強大な武力と経済力を持った義定は、誰もが認める幕府創立の功労者でもあった。さらに文治元年(1185)から文治5年(1189)にかけて、頼朝は弟義経と、義経を擁護する奥州藤原氏の討伐のため、安田一門の力を頼みにしなければならず、このため、頼朝も鎌倉幕府での権力基盤が確立するまでは、安田一門には手出しすることはなかった。
 
 歴史年表から拾うと、奥州藤原氏滅亡の年が明けて建久1年(1190)安田義定は朝廷から禁裏守護番に任命された。これが、頼朝に「一刻の猶予もならぬ」との思いに火を付けたのではないかと思われる。
 禁裏守護番は大内守護 (大内裏中の内裏警衛を管轄する官職)であった源頼兼を補佐し、内裏を守る重要な職務である。
 幕府が管掌する内裏 (里内裏) 大番からは,相対的に自立していたと言われるから、前々から甲斐源氏の封じ込めを画策していた頼朝にとって、義定が朝廷との結びつきを深めていることに、相当な危機感をもったとしてもおかしくはない。
 そればかりではなく、この時期の義定と朝廷の関係は、文治六年(1190)、後白河法皇より京都の伏見稲荷、祗園両杜の修理を命ぜられ、修理が遅れたことから法皇のご機嫌を損じて、建久元年下総守に左遷されたものの、翌建久二年竣工し、遠江守に戻るとともに従五位上に叔せられている。

 推測すると、法皇は、頼朝が「甲斐源氏は朝廷の倒幕の策謀に関与しているのではないか」と監視していることを承知で、義定に官位官職を与えることで、頼朝、義定二人の関係を決定的に引き裂き、仲違いさせようとしたのではないか。義定にしてみれば、それが分かっていても、法皇の命令にもたてつくわけにはいかず、たまったものではない。

 そして、頼朝がついに安田氏抹殺の陰謀を発動したのは、頼朝が征夷大将軍となった建久3年(1192)の翌年のことだった。まず、義定の嫡男で越後守義資が、建久4年11月27日、鎌倉の永福寺薬師堂落慶供養式において幕府に仕える大倉御所女官の一人に艶書を与えたという梶原景時の讒言が頼朝にもたらされた。

 これには異説があり、雲光寺略史では、義定の次男義季が落慶供養参列のため、甲斐から出てきて、兄義資の館で、女性を見そめ、その思いを書状にしたため、兄から手渡してもらったという。この女性がこともあろうに、頼朝の目にかなった侍女であり、この侍女から相談を受けた同僚龍樹が(梶原景時を通じて)頼朝に密告したという。

 いずれにしても、このどこにでもある一事をとらえての陰謀は周到に準備されていたものとみえ、理由は何でもよかったのではないか。それが証拠には、建久3年9月に北条義時が大倉御所官女の姫ノ前(比企朝宗の娘)に艶書を送っていたのが発覚し、頼朝は2人を結婚させるという事件があった。同じ艶書で、義時を結婚させ、義資を殺害という二重基準に、頼朝の手段を選ばない権力への執念がみえる。

 吾妻鏡では、頼朝は義資に対する讒言が報告されたその日のうちに、鎌倉名腰で義資の首をはね、梟首したという。(雲光寺略史では義資が弟の嫌疑を負い自害したという)。同時に頼朝は詮議もないままに、父義定の所領を没収した。おそらく一条忠頼のときと同様に安田の軍勢が全く動けないよう、甲斐、遠江の両国に大軍が動員されていたのであろうか。

 安田義定は、その後無念のまま、甲斐安田庄に引き籠もっていたが、翌建久5年8月、再び梶原景時が「安田義定は、頼朝を怨んで反逆を企てた」という讒言を頼朝のもとに言い立てた。政所別当の大江広元や、問註所別当三善康信らが頼朝を諫めたが、頼朝は聞き入れず、梶原を主力とした安田討伐の大軍を甲斐に出兵した。
 
 安田義定の最期は、幕府の公式記録である吾妻鏡など資料によって諸説がある。吾妻鏡によれば、建久5年8月、義定は謀反の疑いで梟首されたとあるだけで素っ気ない。しかし、義定の墓所のある雲光寺が編纂した「雲光寺略史」には以下のように詳しく記されている。
 
 義定公は建久5年8月、小田野城下(山梨市牧丘町)で戦ったが、頼朝の大軍に衆寡敵せず8月19日小田野城下に倒れた。
 義定公は民事治世の奥儀を京師より鎌倉に迎へた問註所別当三善康信から授かっていた。民衆はその徳に懐かしんだものである。三善民部卿は義定公とは懇ろにつき合う仲であった。義定公が頼朝の不興を蒙り、悲憤の余り心を千々に歎いていたとき、三善卿は甲斐に来て慰めた。三善卿は頼朝の勘気が打ち解けるよう要請したが、頼朝は君側の姦臣の言葉を入れて、聴こうとはしなかった。

 鎌倉の流言により、遂に義定に討手が下った。幕府の功臣に頼朝を諌める者もなく、とばっちりの難を怖れるばかりだった。
 義定公は大井庄大御室の地(山梨市八幡)にて亡くなった。加藤次の軍は、遠江守が討死と聞き、軍を引揚げた。斉藤加賀守は西保峠(山梨市牧丘町)より窪へ引き、鼓川あたりにあった館は焼失し、恨事ただ空しい状態であった。
 雲光庵の僧侶伊勢坊玄海法印は、主君の烈死を憤り悲しみ、家臣の遺骸をひそかに集めて寺中に埋葬した。言い伝えによると、伊勢坊玄海は豪僧にして、力量学徳があり、常に戦場では安田軍の本陣に参与していた。主家また尊敬する義定公の遺骸を当寺に埋葬するに当たり、遺臣で殉死する者百余人が主君の墓前に座し、いさぎよく殉死した。介錯を玄海法印が承り、念仏を唱へながら行った。
 玄海法印は殉死の介錯を終り、自分は寺の薬師堂の所に至り、自ら穴を堀り、自らの刃で頭をはねて、逆さに投身した。それ以来、この地を災難田と言い伝えている。(以上原文を意訳)

 雲光寺略史で、義定が戦いで倒れたとされる小田野城下には、現在山梨市牧丘町西保下御所集落の西方、鼓川左岸に「伝安田義定の墓」が所在している。義定は小田野山に要害城を築き、その城下である御所集落に西御所を置いたと伝えられている。墓所の宝篋印塔は、室町時代に造立したものと考えられ、安田義定とその一族を埋葬した場所と伝えられている。
 
 また雲光寺略史で、義定が亡くなったという大井庄大御室の地は、南北朝時代から室町時代初期に編纂された「尊卑分脈」によれば義定が誅された場所として「馬木庄(牧庄)大井窪大御堂」と記しており、現在の山梨市北、大井俣窪八幡神社辺りと考えられてとしている。神社の北方近くに「みみんどう」という墓の遺跡があり「大御堂」がなまったものではないかと考えられている。
 
 一方、甲州市の放光寺の伝承によると、義定は、梶原氏のため謀反の嫌疑を受け甲州におちのびたが、身にまとっていた鎧を笛吹川に投げ、放光寺において自刃したという。
 

革命家頼朝が恐れた武将安田義定


 頼朝による武家政権革命が、朝廷から政権を奪い取り、中世の武家社会開幕を告げる画期的な出来事であったことは改めて言うまでもない。その革命の過程は、
(1)平氏による公家からの政権奪取
(2)源平合戦による平氏の没落
(3)源氏による朝廷と政治の分離、と続く

 その過程で政治の実権を握った頼朝(と北条時政)による実力者安田義定、あるいは義経、その他多くの功績ある武将たちに対するテロリズムをどう評価するのかは、さまざまな歴史家の見解があろう。

 しかし、「革命家頼朝」という観点に立てば、フランス革命、ロシア革命などの例を引くまでもなく、テロリズムあるいは恐怖政治は必然だったとも言える。京を遠く離脱し、鎌倉で完全な武家政権の確立を目指す頼朝にとって、朝廷方の「王政復古」「反革命」への権謀術数こそ、常に厳しく監視し、警戒を緩めてはならないものだった。
 ところが、官位官職をちらつかされ、やすやすと朝廷の甘言にのってしまう、義経ら有力武将たちの認識不足がまずもって、頼朝の許せない大問題だったと推測できる。
 「武家政権確立への革命の道筋をどう築いていけばよいのか、それに気づいているのは自分だけである」という気負いもあろう。頼朝が自己の無謬性にとらわれた革命政治家であったことは間違いない。

 武家政治を確立するために頼朝は2つの仕掛けを設けた。一つは、それまでの権謀術数にそまった公家政治の術中におちないよう、京を遠く離れた地に幕府を置くこと、二つには権力の根源を源氏の統領である自己に集中することである。
 朝廷の甘言に御家人たちが踊らないようにするためには、頼朝の命令は、無謬性をもって幕府内で絶対視させなければならない。革命政権を守るためには、幕府内の朝廷派をあぶり出し、反革命の動きを未然に封じ込めなければならない。そのために頼朝は手段を選ばなかった。テロによって、自己の地位と政権の無謬性を脅かすと思われる勢力を分断、対立させ、謀殺していった。

 その仕組みとして、御家人の中に密告を勧めて御家人をお互いに監視させ、恐怖政治を革命のために正当化したのではないか。これは政治の分野では「分割と統治」と呼ばれる古典的な手法であり、西洋、東洋の古今を問わず、革命政権にありがちなパターンと言える。自らの正当性を主張できるだけの権力基盤があれば、頼朝もこれほど卑劣な手段を執らなかったのであろうが、革命当初には基盤となるべき領地や郎党を持っていなかった。

 この頼朝の非情の論理の前では、残念ながら義経も義定も、政治家ではなく、誠実で実直な武士でしかなかった。
 しかし、安田義定は、甲斐源氏勃興期の一大英雄であった。その悲劇の最期は義経やその他多くの勇猛果敢な武将たちとともに、鎌倉幕府創立の礎(いしずえ)となったものである。

 仮定の話ではあるが、もし安田義定に野心と戦略があれば、平家追討使として、都にあった寿永2年夏の数ヶ月の間に、木曽義仲に取って代わるか、同盟を結んで、甲斐源氏による武家政権を樹立できた可能性は大きい。それだけの勢力を義定は築いていた。それゆえに、頼朝は義定を深く恐れた。

 義定の死は、以上のように歴史資料によって多少の相違はあるが、おおよそ悲痛なものであった。安田家の滅亡により、義定親子の遺物はほとんど失われ、安田庄の館跡も今となっては不明となっている。しかし、平氏追討に甲斐源氏の豪勇をうたわれ、最後には悲劇的な死を遂げた義定一族の滅亡は、後に甲斐国を統治した武田一門の追慕するところとなった。

 雲光寺古文書には、武田信玄が墓所で法要を行った記録もあるというが、なかでも現存する法筐印塔に関する武田氏の供養の文献はかなり詳しいという。

 それによると、貞治2年(1363)武田家8代の武田信成が安田一族墓所において、没後174回忌の厚い供養と寄進を行った。安田一族の五輪塔の隣に現存する宝筐印塔がそのとき建立されたものである。これは文化財としての価値も高く山梨県指定有形文化財となっている。

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NPO法人地域資料デジタル化研究会
デジタルアーカイブ班・安田義定プロジェクト(井尻俊之)
 



関連情報WEBサイト:

●塩山市・放光寺ホームページ
放光寺(ほうこうじ)は元暦元年(1184)源平合戦で功績をたてた安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立。ホームページでは、安田義定の功績を紹介しています

http://www.hokoji.org/

●静岡県周智郡森町役場ホームページより(安田・遠江守護の領地経営を紹介)
http://www.town.morimachi.shizuoka.jp/kankou/choshi/choshi-12.html
 
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