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北海道開拓スピリットと甲府中学校長大島正健

山梨県甲府中と大島正健校長

カテゴリ: 山梨県甲府中学と大島正健校長 地域: 山梨県甲府市
(登録日: 2006/10/31 更新日: 2017/02/05)


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記録日: 2006/10/30 山梨県甲府市、県立甲府一高
(12件)
01 県立甲府第一高正門からみた校舎 02 甲府第一高正面玄関前 03 大島正健先生彰徳碑 04 大島正健先生彰徳碑
05 大島正健先生彰徳碑 06 大島正健先生彰徳碑裏面 07 大島正健先生彰徳碑のレリーフ 08 校是「BOYS BE AMBITIOUS」の掲示額
09 甲府一高校是掲示額の全容 10 県立甲府第一高校百周年記念館 石橋湛山翁胸像 11 県立甲府第一高校百周年記念館 石橋湛山翁胸像 12 石橋湛山翁胸像の銘文



大島正健先生彰徳碑 銘文


大島正健先生彰徳碑

BOYS BE AMBITIOUS   湛山書

 青年奮起立功名    馬上遺言籠熱誠
 別路春寒島松駅    一鞭直蹴雪泥行
  懐クラーク先生
               大島正健

  碑誌銘

大島正健先生は安政六年七月二十五日相模国
海老名村名主大島正博と室縫子との四男に生
れ明治七年状況同九年八月札幌農学校の第一
期生となりクラーク博士の薫陶を受け同十三
年七月最上の成績で卒業同校にとどまり後に
教授同十四年平野千代子と結婚同二十六年九
月札幌を去り京都同志社教授ついで奈良中学
校長を経て同三十四年三月山梨県立第一中学
校長に就任爾来十三年間甲府に勤続された
大正三年九月先生は甲府を辞して宮崎に移り
遂には朝鮮に○○渡つてそこの教育にも尽力
され昭和三年三月多年刻苦勉励の余になる支
那音韻史に対し文学博士の学位を贈られ晩年
には東京目黒の令嗣大島正満博士の許に起臥
同十三年三月十一日昇天された享年七十九
今○母校創立八十五周年に際しわれら同窓相
語り定碑して先生の遺徳を顕彰する銘に曰う
東西南北夢古韻付釜十字神来訓清貧八十年
  中村星湖並撰書
  昭和四十年十月二十三日
  大島正健先生彰徳碑建設委員会建之
           一宮町 川口浅治郎刻

校舎正面に設置
 

県立甲府第一高校 石橋湛山翁胸像 銘文


県立甲府第一高校百周年記念館 石橋湛山翁胸像

<銘文>
 石橋湛山先生は、山梨と母校県立甲府第1高等学校が生んだ偉大な先輩である。
 明治十七年(一八八四)に生まれ、明治二十八年(一八九五)から同三十五年(一九〇二)まで山梨県尋常中学校(現甲府一高)に在学、特に札幌農学校でクラーク博士に学んだ大島正健校長の影響を強く受けた。早稲田大学へ進み、卒業した後、東洋経済新報社で主幹、社長を務め、大正から昭和にかけて民主主義、自由主義、平和主義を貫く論壇の雄として大いに活躍した。
 第二次世界大戦後、政界に入り、大蔵大臣、通商産業大臣を経て、昭和三十一年(一九五六)に内閣総理大臣に就任した。翌年病に倒れ、惜しまれて任を辞したが、その後も中国、ソ連を歴訪、両国との国交回復の土台をつくるなど、昭和四十八年(一九七三)八十八歳で死去するまで国際平和活動に力を注いだ。
 日本を代表する言論人、政治家として世評ますます高い石橋湛山先生の胸像を、石橋湛山記念財団の御厚志を得て、ここに母校の一隅に据えて顕彰することは、学窓を同じくするものすべての限りない喜びである。
 平成六年(一九九四)九月二十七日
 山梨県立甲府第一高等学校同窓会会長 太田 源一郎
 
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