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真田氏の軌跡

真田昌幸に影響を与えた人物旅in長野市

カテゴリ: 真田昌幸の生きた道 地域: 長野市
(登録日: 2016/11/19 更新日: 2017/01/30)

昌幸に影響を与えた人物


武田信玄の弟 武田信繁
昌幸は武田信繁に憧れを抱いていたことから、信繁の字を頂いて、自分の息子に真田信繁と名づけている。

武田信玄家臣 山本勘助
なぞの多い人物ではあるが、おそらく兵法の師として慕っていたと思われる。
この人から兵の動かし方、城の築城法を学んでいたのではないか。

(編集者 88)
 

探索ルート


今回の探索ルートは
「典厩寺」→「胴合橋」→「八幡原(八幡社、第4次川中島合戦の本陣再現)」
です。
 

天厩寺(てんきゅうじ)

(9件)
01 典厩寺の外観 02 典厩寺 03 典厩寺 04 典厩寺の入り口
05 典厩寺の周辺 06 典厩寺の入り口 07 川中島陣中観世音の石碑 08 典厩寺への案内
09 典厩寺の寺紋


武田信玄の弟 武田信繁公のお墓がある場所。
寺紋は武田菱で、いかにも武田氏の寺という感じがします。
参拝料は200円で、境内の堂内には閻魔堂があり、大きい閻魔像を拝むことができる。
 

典厩寺周辺の景色

(2件)
01 典厩寺周辺の景色 02 典厩寺周辺の景色

胴合橋(どうあいばし)

(3件)
01 山本勘助の胴と頭が合わされた場所 02 胴合橋 03 胴合橋の石碑

胴合橋の説明


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記録日: 2016/01/04 長野

胴合橋(長野市篠ノ井杵淵字胴合)

 永禄4年9月10日、川中島合戦の時、山本勘助が東福寺
泥真木(どろまき)明神(勘助宮)付近で戦死した後、
その家来が敵の手から首を奪い取り胴と首とを
合わせた所という。
 朝霧の中から突如として姿を現した越後軍1万2千の
大軍が武田方の備えを次々撃破し破竹の勢いで、信玄
本陣目がけて突進する。これを見た山本勘助は長嘆して
「甲越合戦すること15年、その間大小の合戦十余回
あったが敵の作戦を見損じたことは一度もなかった。
しかし今日は、川霧のために大軍が迫るのを
しらなかったのは、わが武運の尽きる時。」と言って
越後勢の中に突入して、家臣もろとも首を落とされて
しまったという。勘助の家来たちが主人勘助の首と胴を
合わせた場所がこの胴合橋であったというが、典厩信繁
と言う説もある。
(長野市誌編纂専門委員 岡澤 由往)
 

八幡社(はちまんしゃ)

(10件)
01 八幡社 02 八幡社 03 川中島古戦場八幡社の説明 04 川中島古戦場八幡社
05 八幡社の説明 06 八幡社の説明拡大 07 八幡社の旧社殿 08 御神木
09 八幡社の現社殿 10 八幡社の現社殿

八幡社の説明


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記録日: 2016/01/04 長野

八幡社由緒
御祭神 誉田別尊 建御名方命

由緒
祭神の誉田別尊は、第15代応神天皇の諱で、皇室の崇敬する神、
源氏一族をはじめ武人の神として信仰されています。

当社において…
平安中期、源顕清が信濃の国に流された時、この地を訪れた。
広大な景勝の原野に武運長久を祈り八幡大神(誉田別尊)を
ご神木の大欅に包まれる鞘堂内のご神殿に祀られたことから、
この広原一帯を八幡原と名づけられました。
川中島の合戦で破壊された神殿を信玄は、高坂弾正に命じて社殿を再建させ、
その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕の管理運営を任されました。
現在は明治41年に建御名方命(諏訪大社の祭神)が合祀され、その御神徳は、必勝、厄除け、交通安全、
安産、育児などであります。
 

第4次川中島合戦の本陣再現

(5件)
01 八幡原本陣再現像 02 第4次川中島合戦の本陣再現 03 八幡原本陣再現の説明 04 三太刀七太刀の跡
05 三太刀七太刀の跡の説明

第4次川中島合戦、本陣の説明


八幡原本陣再現
ここ八幡原史跡公園は、永禄4年(1561)の第4次川中島合戦において、
武田信玄の本陣がおかれた場所とされています。
後世「啄木鳥戦法」を有名にしたこの戦いは、上杉によって見破られてしまいます。
激しい戦いの中、信玄と謙信が一騎打ちを仕掛けた伝説も有名です。
また、三太刀七太刀の伝説もここから生まれました。

第4次川中島合戦と真田昌幸
この戦いは、真田昌幸にとって関係が深い。
昌幸はこの戦いが初陣であり、初めて本格的な戦場を経験した。
しかし、師匠と慕っていたであろう武田信繁、山本勘助を同時に亡くしてしまうという
悲しい経験もしている。
 

周辺にある史跡

(10件)
01 絆乃木 02 執念の石の説明 03 執念の石 04 芭蕉の句碑
05 芭蕉の句碑 06 歌碑の説明 07 歌碑 08 首塚の説明
09 首塚 10 風林火山の旗の説明

山本勘助の墓

(5件)
01 山本勘助の墓 02 山本勘助の墓 03 山本勘助の墓 04 山本勘助の墓
05 山本勘助の墓

山本勘助の墓の説明


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記録日: 2016/01/04 長野

山本勘助(道鬼)墓

山本勘助は、三河国(愛知県)の出身、26歳より諸国をめぐり修行し、
天文・兵法・槍術・築城術等武芸百般を体得、44歳にして武田信玄の軍師となり
数々の策略を立て、上杉謙信の攻撃に備えて築いた海津城(松代城)の構築も手がけた。
1561年(永禄4)9月10日の激戦において、信玄に勧めた「きつつきの戦法」を謙信に見破られ、
武田軍は一時苦戦に陥り、勘助は責任を感じ奮戦の後討死にした。
勘助の墓は初め、この南、陣ヶ瀬の東、勘助塚にあったが、千曲川の流れにより荒廃していく姿を憂い、
1739年(元文4)松代藩家老鎌原重栄・原正盛が、信玄ゆかりの信州紫阿弥陀堂境内に
遺骨とともに移し、墓碑を建立した。
1809年(文化6)には孫の鎌原重賢が、末永く墓を守るためにさらに石積みし、
いまの姿となっている。
 
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