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真田氏の軌跡

長谷寺(ちょうこくじ)

カテゴリ: 真田昌幸の生きた道 地域: 真田町
(登録日: 2016/11/19 更新日: 2017/01/30)


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記録日: 2015/07/24 真田町

長谷寺の説明

(2件)
01 長谷寺周辺の地図と説明 02 長谷寺の案内板A


長谷寺は、昔「種月庵」と呼ばれていた。
天文16年(1547年)に真田幸隆公が上州安中の長源寺から晃運和尚(こううんおしょう)を招き、
「真田山種月院長谷寺(しんでんさんしゅげついんちょうこくじ)」として創建された。
その後、真田昌幸公によって整備され、真田家の菩提寺となった。
元和元年(1622年)に真田信之公が松代へと移封となり、松代に「長国寺(ちょうこくじ)」を建立。
そのため、長谷寺は末寺となり今日に及んでいる。
度重なる戦火や災害に見舞われ、貴重なものは全て無くなってしまった。
現在の本堂は昭和53年に、庫裏・位牌堂は平成元年に再建され、鐘楼は平成20年に建てられた。
本堂裏手には、真田幸隆夫妻と昌幸公の墓がある。
 

真田幸隆・昌幸の墓説明板

(2件)
01 幸隆夫妻と昌幸墓所A 02 墓所案内板


上田市指定文化財(史跡)
真田幸隆夫妻と昌幸公の墓
(中央が真田幸隆公、左が幸隆夫人(恭雲院)、右が昌幸公)

真田幸隆は永正10年(1513)の生まれと伝えられ、
天正2年(1574)吾妻の地に没するまでに真田氏隆盛の礎を築いた。

昌幸は天文16年(1547)の生まれで、
兄信綱、昌輝の戦死により家督を継いだ後に
上田城を築き、徳川の大軍を二度にわたり退けたことは世に知られるところである。
関ヶ原の戦いの後、高野山九度山に配流され、
慶長16年(1600)再び真田の地を踏むことなくこの世を去った。

昌幸の長子信之は、上田から松代に移封となった際、
松代に菩提所長国寺を建立したが、旧菩提所真田山長谷寺もよく管理され、
幸隆公、幸隆公夫人、昌幸公が懇に弔われている。
 

撮影した写真

(26件)
01 駐車場 02 駐車場のトイレ 03 長谷寺周辺の地図と説明 04 駐車場の石垣@
05 長谷寺の案内板A 06 駐車場の石垣A 07 本堂の横道 08 本堂の横道の杉林
09 本堂横と鐘楼 10 立派な松の木 11 アーチ状の山門 12 アーチ状の山門寄り
13 焼香炉 14 本堂 15 寺紋 16 墓地への道
17 墓所への入り口 18 墓所前の庭@ 19 墓所前の庭A 20 奥に進むと墓所へ
21 幸隆夫妻と昌幸墓所@ 22 墓所案内板 23 墓所の石碑 24 幸隆夫妻と昌幸墓所A
25 墓所で見つけた六文銭 26 幸隆夫妻と昌幸墓所B

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