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真田氏の軌跡

真田氏本城跡

カテゴリ: 真田昌幸の生きた道 地域: 真田町
(登録日: 2016/11/19 更新日: 2017/01/30)


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記録日: 2015/07/24 真田町

真田氏本城跡は築城年代が定かではなく、
戦国期の天文年間(1532年〜1555年)、
あるいは鎌倉期と言われている。石垣のない土の城である。

私が散策した、尾引城跡と比較すると敷地が広く、
守りやすい強固な敷地面積のため、城としての機能は揃っていると感じた。

本城跡からの眺めは素晴らしく、城主になったつもりで見ることができる。
昌幸公がこの眺めを見ていたかと思うとワクワクします。見ていたとすると、
生まれてから武田氏に人質に行くまでの間、家督を継いでから上田城を築城するまでの間
だったのではないでしょうか。(私の見解ですが)
しかし、この間主君のために動き回っていたことから、ゆっくりとこの景色を眺めることも
少なかったと思います。

(編集者 88)
 

真田氏本城跡の説明


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記録日: 2015/07/24 真田町

史跡 真田氏本城跡
この城跡は、天白城と共に馬蹄形城に構築され、南西面に広がる緩斜面には、
真田氏館跡や原の郷があり、さらに指呼の間に、砥石城・矢沢城を望むことができる。
本郭は東西8.6m、南西37mの広さで、南側に高さ2mの土塁を築き、
北方へ二の郭、三の郭と段差を設けながら、延び出し、
その北側は急な崖となって厳重に防備している。
規模は大きく水利もあり、周辺城跡群等の関係からみて、
上田城以前の真田氏本城であったと推定される。
 

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記録日: 2015/07/24 真田町

真田町指定文化財
史跡 真田氏本城跡(真田山城)跡
この城は、松尾新城、住連寺城、十林寺の城山などとも呼ばれます。
真田氏館跡や原の郷(本原一帯)へと続く
なだらかな南斜面には何段もの広い段郭を連ね、他の三方は急斜面ですが、
要所に細長い段郭を配置して厳重な備えとなっています。
この山城は、真田町内の他の山城に比べて規模が大きく防備も複雑で、
上田盆地への眺望が開け、眼下に小県と北上州を結ぶ上州道を押さえ、
熊久保集落の上方の沢から山腹を回して場内近くまで水を引いていることなどの特徴があります。
こうしたことから、町指定文化財は、真田氏の本拠にふさわしいとして真田氏本城跡としました。
 

用語の説明


・郭(曲輪)(くるわ)
 城の中を土塁や掘で区切った空間のこと。
・土塁
 敵の侵入を防ぎ、矢や弾除けの役割がある。
・堀切
 山城において、敵の侵入を防ぐ役割がある。
 

真田氏本城跡の石碑


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記録日: 2015/07/24 真田町

真田氏本城
作詩 新田大作
山嶽幾重連陣営(山嶽幾重か陣営連なる)
縦横布置緻行兵(縦横の布置行兵緻なり)
今朝錦繍一望遠(今朝錦繍一望遠し)
覇業遥思古本城(覇業遥かに思う古本城)
 

撮影した写真

(37件)
01 真田氏本城跡 02 堀切跡 03 山がよく見えますね 04 堀切跡B
05 芝生広場@ 06 芝生広場のわき道@ 07 堀切跡C 08 芝生広場のわき道A
09 芝生広場のわき道B 10 芝生広場A 11 芝生広場B 12 土塁
13 真田氏本城跡の標 14 真田氏本城跡の説明板(土塁前) 15 土塁から本郭へ 16 真田氏本城跡の石碑
17 本郭からの景色 18 本郭@ 19 本郭A 20 真田氏本城跡周辺の地図と説明@
21 真田氏本城跡周辺の地図と説明A 22 真田氏本城跡周辺の地図@ 23 真田氏本城跡周辺の地図A 24 真田氏本城跡周辺の地図B
25 二の郭@ 26 二の郭A 27 二の郭B 28 二の郭崖@
29 二の郭崖A 30 三の郭@ 31 三の郭からの景色 32 三の郭A
33 土塁上@ 34 土塁上A 35 土塁上B 36 縄張図
37 堀切跡C

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