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小津映画入門

2 繰り返される老夫婦の<かたち>


 老夫婦が旅をする物語を描いたこの映画は、同時に老夫婦の並び合う姿が繰り返されていく映画でもある。老夫婦は、いつも同じ方向を向いて、同じ姿勢で坐っている。従って画面では、同じかたちが二つ並んで見える。小津は、この映画の老夫婦のように、特定の人間関係を一対の同じかたちで見せることが多い。

図1
老夫婦の人物配置の基本型 老夫婦が東京へ旅立つ支度をしていると、隣の細君が軒先に姿を現して2人に声をかける。人物の坐る位置が入念に設計されている。
図2
東京の長男の家に着いた老夫婦を長男夫婦と長女が出迎える。老夫婦だけが後ろ向きに坐り、画面奥の3人とは<かたち>の上で区別して扱われている。
 この映画では図1のかたちを基本型にして、同じかたちが何度も繰り返されていく(図26図8)。二人を他の人物と一緒に同じ画面に収める場合(図2図3図5)でも、老夫婦の基本型は、他の人物とはっきり区別されるように、人物の坐る位置や向きが入念に設計されている。まるで嵌め込みパズルのような構成のしかただ。

 ところで、この老夫婦の坐り方、ちょっと変ではないだろうか。たとえば図1。これでは、画面右の老父(笠智衆)が左の老婦(東山千栄子)に話しかけるとき、いちいち顔を後ろへ向けなければならない。

図3
老夫婦が東京へ着いた日の夜、皆が帰って部屋に老夫婦と長男が残る。他の人物が画面から姿を消すと、そこに小津特有の人物配置型がくっきりと現われる。
図4
老夫婦が床に着く場面。2人とも同じ姿勢、同じ向きで坐り、同じようにうちわを手にしている。
図5
老夫婦の基本型がこれだけ繰り返されると、そのかたちは観客の眼にもはっきりと定着する。そこからかたちによる効果が生み出されるようになる。
 老夫婦の基本型は、物語に、ある種の効果をもたらす。同じかたちが同じように繰り返されると、私たちはそれを法則にも似たあるべきかたちとして受け入れるようになる。『東京物語』では、あるべきかたちの崩れが、物語の展開に即して効果的に導入される。

 かたちの崩れが最初にもたらされるのは、熱海の防波堤で老母がふらついて下に手をつく瞬間だ(図7)。ここから後の展開では、またどこかでかたちが崩れるのではないかとの危機意識がつきまとう。

図6
熱海の防波堤に坐る老夫婦。2人が画面上で重なり合わないように2人を斜め後ろから撮っている。こうすることで、基本型と同じかたちが得られる。
図7
2人が立ち上がった時、老母はめまいを感じて下に手をつく。老父はそのまま去りかける。突然に訪れるかたちの崩れが、緊張を伴う瞬間をつくり出す。
事実、場面が東京から尾道へ移ると、老夫婦のあるべきかたちは完全に崩れてしまっている(図9)。

図8
熱海から帰った老夫婦は、長女の家を追い出される身の上となる。その悲痛さが背をかがめた姿勢により表現される。笠智衆の背中には座布団が入っている。
図9
尾道に帰ると老母は危篤になり、昏睡を続ける。それまで維持され続けた老夫婦の基本型は、ここに来て完全に崩れ去る。それは人生の変容を象徴するかのようだ。
 老夫婦の基本型は、ラスト・シーンに至って、老母の死(=不在)という意味を明らかにする(図10)。そこでは、映画の冒頭(図1)と全く同じ画面が再現されるが、いるべきはずの老母の姿が消えて、画面にポッカリと穴ができている。

図1(再掲)
映画の冒頭部で示された場面
図10
映画の終り近く。何もかもが最初と同じだが、老母は画面から消え、いるべきはずの位置にポッカリ穴ができている。
 小津は、このように段取りよく、老夫婦のあるべきかたちをしつらえ、そのかたちを崩し、老母を消しさってしまうことによって、人間の老いと死を表現したのである。


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