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バーチの小津作品分析について

4 いささか強引な二つの発言


 さて、『父ありき』でバーチの分析は終るが、章の終り近くになって、彼はいささか強引とも言える二つの発言をしている。一つは、アメリカ映画からの影響をできるだけ否定しようとする苦しい弁明であり、もう一つは、戦後作品に関する、それまでにも何度かコメントしておきながら、根拠が全く示されないままに終る堂々めぐりの持論である。私がこれらの発言に留意せざるを得ないのは、いずれも発言の内容が、バーチの小津作品全体に対する史的評価を含んでいるからである。それでもひいき目に見れば、少なくとも前者は無視できる。小津作品の形式に西洋映画の支配的コードとの対照で日本的特徴を読み取ろうとするバーチの研究にとって、影響関係の是認が不都合なものであり、この発言がそれ故の否定的なポーズであることは、この場合明らかすぎるからである。

 しかし、「この作品〔『父ありき』〕の完璧性がまさに巨匠が戦後まもなく陥った、あのアカデミズムの種子を含んでいる」とする戦後作品への評価は、実際の形式とバーチの評価基準に照らしてみると、もっと根本的な矛盾を抱えている。バーチが、戦前期の作品、とりわけサイレント後期からトーキー初期の作品を高く評価するのは、その時期の作品が、動き/不動性の弁証法的構造を持ち、戦後作品を低く評価するのは、戦後作品では動きがシステマティックに排除され、結局それは不毛と判断していることによる。

 『父ありき』までは、確かにバーチが言うように、枕ショットの洗練された使用やロング・ショット優位の画面内構成などによって、次第に画面全体が絵画的に平面化し、説話的世界が枕ショットの静的世界へ吸い込まれていくかのような展開を示しているのだが、戦後作品は、私の分析では全く逆の展開、つまり、説話的世界に「動き」をシステマティックに導入することによって、動き/不動性の弁証法をいっそう複雑に機能させていくような展開によって、戦前期の展開とははっきりと区別される。

 いったい、バーチは戦後作品の形式に何を見ていたのであろうか。彼は、 To the Distant Observer に先行する著作 Theory of Film Practice で、人物の画面への出入りが、映画の画面内と画面外の二つの空間に内在する弁証法を外在化させる契機として働くことを強調して論じており、彼は既にその著作で小津作品における人物の画面の出入りについて触れている。----「小津は疑いもなく、画面が空白のままにされている時の相対的な時間の長さに変化を与えた最初の作家であった。画面は時として〔人物の〕登場前に空白であるが、退場後はもっと頻繁に空白のままになる。」

 しかし、バーチがそこで視線を注いでいるのは、人物の出入りではなく、その前後にもたらされる空白の画面の方である。それが、本章での「枕ショット」の静止性をめぐる分析へと発展していくのだが、反面、人物の動きの連鎖が形式を組織化していく重要な側面を見落とすという結果も生んでしまった。

 結局、本章での問題点は、 Theory of Film Practice で、小津以外の作家の作品については、あれほど人物の画面への出入りを詳しく分析していながら、本章の小津作品分析では文化的意味読解のレベルで「動き」、とりわけ人物の画面への出入りを有標化しえなかったために、先の成果が十分に活かされず、分析が絵画的平面性の考察へ走り過ぎてしまったことに集約されているように思われる。カメラの動きの廃止、180度の切り返し、システマティックな方向性の無視、画面の対称性、構成の幾何学性など、小津が映画的空間に仕掛けた数々の戦略は、説話的世界の人間的中心に対して空間全体を脱中心化するように働くだけでなく、絶えず空間的方向感覚を錯乱し、空間的位置関係を相対化することによって、時間的運動=空間の反復的な自転運動をもたらしてもいる。バーチが分析した動き/不動性の弁証法は、空間相互の織りなす構造としてだけではなく、時間的連鎖関係の中でさらに考察してみる必要がありそうである。その際に、バーチ自らが提示してみせた<人物の画面への出入り/画面外空間と画面内空間>の役割が、分析上の重要な指標となるように思われる。


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