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小津作品の形式総体の働きと効果

3 映画の時空間の分節と諸事象の織り成すモード


 先に述べた諸技法間のシステムは当然のことながら、映画の時空間を秩序立てる枠組となり、断片化され整合された「かたち」の概観(幾何学的構成)を際立たせることになる。そうした形式管理の下に個々のショットはそれぞれ等方均質な対称性を持つことになる。さらに注目されるのは、ショット内部の時空間、ないしは諸事象までもが、微細に分節化され整合されることである。このような分節の実際の作業は、撮影前の綿密なセットの設計、コンテの作成、入念な小道具の配置、俳優の演技指導などであるが、特に演技指導などの場合、演技をその中身にでなく、外側のかたちに求めたこと、そしてそのかたちの要求も極端な場合には、手の上げ下げやまばたきといった、観客が殆ど目にとめることがないであろうような非常に微細な動作の末端にまで及んでいる。

 かたちの全面的な管理の結果、画面が自然さを欠いていることは、蓮實重彦が既に詳しく論じている通りである(*2)。画面の不自然さが際立つのは、あまりにもパターン化されたかたちがその中に数多く嵌め込まれているからだ。たとえば、襖・天井・畳等の構成する線と面によって画面がその内部へ次々と仕切られていく室内空間ショットの上下左右の対称性の強い配置形ないしは配置関係、とりわけ人物どうしの並び合うかたち、人物の会話と動きの整然とした交替パターン、独特なセリフのイントネーション、およびそれらの一定の間合いとテンポ、人物のフレーム・イン、フレーム・アウト、アクション・カットの多用、単純な反復音として整合された音声、シークウェンス間の移行に一定不変に使用される音楽等である。

 小津作品の説話的世界を特徴づけるのは、単にパターン化によってもたらされるかたちの類似性(対称性)のみならず、作品ごとに反芻され、あるいは作品全体に渡って繰り返される事象、行為、話題、エピソード、場所(家庭、料亭、会社等)、人物関係(親子関係、旧友関係等)等が数多い物語構成にも認められる。こうした事例は、挙げ出していけばそれこそ切りがない。これらにも、かたちの場合と同様のパターン化構成が顕著だが、ここでは問題をかたちの事例に絞ってみよう。

 蓮實重彦は、小津作品の画面の不自然さに着目し、不自然さを誇張する事例を挙げながら、「いずれにせよ、こうした不自然さほど均衡や調和といった概念から遠いものはない。」(*3)と述べる。が、果してそうだろうか。

 たしかに小津作品は一貫して不自然であり、それを不自然さの体系と呼ぶこともできようが、蓮實が言挙げしてみせる不自然さは、その中でも特にその個所が突出してくるような事例に対して表明されている。既に述べてきた通り、小津作品がよくも悪くも形式的に管理された映画であることは、さまざまな特徴やパターン化構成等から明らかな事実であって、彼の作品には『お茶漬の味』(52年)の如き見るに耐えない作品までも含まれていることは、それが必ずしも芸術的な品質証明とはならないとを示してもいる。

 ここには小津作品の不自然さと形式を結びつける基本的なかたちの諸相の働きが隠されている。つまり、大多数の被写体空間は、同一のかたちに均されてしまうことにより、不自然さを露わにしながらも、不自然さの中での自然体として後景化し、その中に配置される人物や物を相対的に意識化されるかたちとして前景化する働きである。

 人が小津作品について幾何学性の言葉を口にする時、多くは左右対称の構図のような後景化される空間の様相、ないしはかたちが羅列・並列化したみかけの様相を念頭に置いている。この様相を説明する限りにおいて使われるべき概念は、「対称」ないしは「相似」であって、「均衡」、「調和」とは明確に区別されねばならない。「均衡」とは本来の字義から言って、力学的にみた平衡感覚のことであり、「調和」とはその平衡感覚が保たれる結果生じる効果のことである。そして個々のかたちが前景化するのは、かたちの規則化された(あるいは何らかの秩序を伴った)構成がかたちどうしの関係(同一対象の反復関係、ないしは異なる対象の並置関係)に「均衡」の力学を持ち込むからであり、小津の形式表現の成否は、まさにこの「均衡」をいかにうまく機能させうるかどうかにかかっている。蓮實が引用する不自然な画面の事例(*4)は皆、かたちどうしが拮抗しあい(『秋日和』のラーメン屋での佐田啓二と司葉子の前に迫る壁)、かたちどうしの均衡が維持される場合の画面であるので、蓮實の言う「自然さ」とは、「均衡関係の消滅」と殆ど同義と考えられる。重要なのは、小津作品においては、一貫してそうした「自然さ」が排除され、均衡関係が「消滅」することはありえないこと、従って、個々のかたち、ないしはかたちどうしは、均衡関係の維持、不均衡の発生、均衡関係の崩壊のいずれかの運命を選ぶべく宿命づけられていることだ。

 蓮實が「極端に不自然」な例として挙げる『早春』(56年)冒頭の出勤シーン(*5)での人の群の動きはその数の多さとシーン全体に渡る持続の長さにもかかわらず、それらの間にまさに「均衡」が保たれることによって「不気味でさえある」印象を生んでいる。つまり同一方向に向けられた視線、同一方向への動き、同一歩調、同一間隔、同一形といった均衡関係が少しも崩れることなく見事に維持され続けるからだ。かたちの均衡維持はそれ自体が極めてスリリングである。というのも、それは絶えず先に不均衡の発生を予感させずにはおかないからであり、特にその効果はこの例のように個々のかたちが常に変化を伴う動くものどうしの関係において際立ったものとなる。「調和」という効果は、常に不均衡の発生という危機をはらみながらもかろうじて均衡が維持されるという危機意識の上にもたらされる異様な効果である。

 一方、不均衡の発生と均衡の崩壊は、人物設定等の物語構成によって決定され、それ故作品全体に渡って反復されるかたちに多く見ることができる。反復されるかたちとして最もよく知られているのは、特定の人物どうしの並び合うかたちであろう。

 『父ありき』(42年)は、別居する父親と息子の再会するエピソードをめぐって展開する親子の物語が、二人の並び合うかたちを通して表現された作品であり、反復されるかたち相互の均衡関係を機能させた作品として傑出している。そこでは、並び合うかたちの緊密な結びつきによって生じる均衡感覚が反復ごとに強く維持されながらも、そこに加えられる操作(広角レンズの使用等による空間全体の奥行感の強調によってもたらされる人物間の距離感、ロング・ショット内へのかたちの嵌め込み、汽車・川などの運動を伴う映像の導入等)が、絶えずその絶対的な均衡感覚をおびやかし、<父の突然の発作−入院−死>と続くラスト近くでの突然のかたちの崩れを際立たせることになる。

 『父ありき』で全面的に試みられた、人物設定の関係性に基づく表現は、それまでにもさまざまに試みられ、後年の作品、特に『東京物語』(53年)では、それを複雑に組み合わせた形での組織化が認められる。

 小津作品の幾何学的構成(等方均質的な分節、諸事象間の対称性・類似性等)は、さまざまなレベルにまたがる諸事象の間に、均衡の原理(ないしは調和の効果)に基づいて織り成されるモードを見出し、その働きを捉えていくことによって積極的に意味づけられるのではないだろうか。

 また、この構成は、諸事象を対等な関係に保ち、対称性を持った諸事象どうしが対照されあう関係を強めるため、説話的レベルでどのような意味連関のコンテクストをつくることも可能な開かれた意味作用のシステムとして見ることもできる。(*6)


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