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小津作品の形式総体の働きと効果

1 問題提起


 小津安二郎の作品は、表現が極めてシステマティックであること、特に形式面での組織化が図られている点で、他の映画作品と際立った特殊性=独自性を示している。

 今日、小津作品は、記号学の流行とその映画研究分野への浸透により、記号学的解読のテクストとしてさまざまなアプローチが試みられるようになり、同時にその映画的価値があらためて問い直されるようになってきた。しかし、完備された形式総体の仕組みと機能の解明、つまりなぜ形式があれほどまでに組織されねばならなかったのか、またそれが総体としてどのような機能を果たすシニフィアンであるのかの問いには、いずれの研究もいまだに体系的な説明を提出してはいない。あるいは、総体的説明の重要性に意識的であるとないとにかかわらず、いずれの研究もその課題を避けてきたように思われてならないのである。

 これまでの批評ないしは研究をふり返ってみると、これには大きく次の二つの事情が関係しているようである。一つは、小津作品の細部が説話的全体に対して(形式に対してではない)自律した構造を持ち、かつ構成要素の自律した展開がみられることが挙げられる。つまり、こうした構造が、全体的構造に対して断片的に、あるいは分解された形で取り上げられ、論じられやすい特殊性を備えていることである。もう一つは、批評家・研究家側の問題意識と表現面へのアプローチにかかわるテクスト以前の問題、つまり映画という現象を捉えるための批評的道具の貧弱さと評価基準の不適切さの問題が挙げられる。たとえば、記号学以前の批評および研究では、「様式」の観点から作品の全体的構造、総体的特徴を、作家の個性や文化的・社会的意味と結び付けて解釈する方法が支配的であり、小津作品の形式の持つ外観が、小津個人の趣味の反映として単純に受け取られ、形式自体が持つ表現的価値をうまく対象化することができなかった。また、それ以後は、(その反動として?)構造主義的・記号学的風潮が、解釈の単純化を避け、全体的構造の把握を拒否して、細部の意味論的構造の分析・解釈に関心を寄せ過ぎていることである。

 今日、我々は「記号」なる視座を得ているにもかかわらず、小津作品という記号を最も特徴づけている「かたち」の構造を通り越して、それに付着し、またそこから派生する「意味」の構造の方に分析の視点が向かいがちなのはどうした訳なのであろうか。また、「全体構造」でなく、「細部構造」のみが取り上げられることにも同様の疑問を投げかけてみることができる。

 たしかに、映画を映画外的事象に語ることをよしとした昔に比べれば、画面自体に目が向けられるようになり、それによって小津作品の独自な構造が見直されるようになってきたことは、大きな進歩には違いない。しかし、同時にそうした考察では、同じ画面の問題とは言っても、考察対象が意味の多義性、意味連関の豊かさをもたらす画面内の諸事象に偏っていくため、考察対象が細分化=多量化の方向へ向かうばかりで一向に問題が収拾されず、また「かたち」が対象外に追いやられるか、二義的な対象に落しめられる結果にもなる。結局、そのようにして小津作品に刻印され、それ故に小津作品たらしめている「かたち」の数々は無標化されるしかなく、意味不明のシニフィアンとして宙吊りにされてしまうのである。

 小津作品の形式的特徴の数々が、これまでにもさんざん繰り返し語られてきたような、既に了解済みの事項であるのなら、それはそれで別に問題はない。しかし、小津作品には、単に作品全体を通してだけでなく、作品間に渡っても組織され継承される「かたち」の展開がある。これは、「かたち」が了解済みの事項でなく、また「細部構造」に対して「全体構造」が同時に見直されなければならないことを証してもいる。

 以下に述べることは、そうした全体にかかわる構造のうち、形式総体の働き、ないしは効果にかかわる点で重要な手がかりになると思われる事柄とそれに関する若干の考察である。


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