http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/index.html
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http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/page/A2082.html
2024-01-05
前川道博
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http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/page/A2083.html
2024-01-05
前川道博
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http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/page/A2084.html
2024-01-05
前川道博
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http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/page/A2085.html
コンサート会場の国際コンサートホールに着いた時には雨や靄はおさまっていました。]]>
2024-01-05
前川道博
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http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/page/A2086.html
草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァル
草津でのこの日のコンサートは「フィレンツェの思い出/グリンカとチャイコフスキー」というタイトル。草津のコンサートはこの時を最初に翌年以降も何度も訪れました。アルペンホルンで観客を出迎えてくれるのもとてもうれしい。高原の気分を満喫しました。この日は雨降り後であったため、屋外ではなく屋内での演奏となりました。
草津にこのようなコンサートホールがあることにも感心しました。さらなる驚きは会場が硫黄臭いこと。草津温泉の宿泊客がこのコンサートを聴きに来ていることを物語っています。硫黄臭いコンサート会場は生まれて初めて経験しました。さすが草津!
このコンサートについては私の別サイト『旅と音楽、旅と音』で記しています。そちらも併せてご参照ください。
★草津でコンサートを聴く 2016/08/29]]>
2024-01-05
前川道博
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http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/page/A2087.html
ソーキそばがこのようなものと違うことは沖縄に行って本場のソーキそを何度も食べてから確信をしました。醤油の入ったスープ、それほど白くない麺に特色があります。その後お店はなくなり、再びこの美味しいソーキそばを食べることはかなわなくなりました。今でも恋しいほどにその美味しさを思い出します。]]>
2024-01-06
前川道博
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http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/page/A2088.html
言うまでもなく森高千里さんの♪『渡良瀬橋』に歌われたあの渡良瀬橋です。日本的情緒のある抒情的で優しく美しい曲に魅せられました。
渡良瀬川は足尾銅山の鉱毒により汚染され、下流域の渡良瀬遊水地にあった村は廃村になったことも知られています。『渡良瀬橋』はそうした歴史的記憶も、また現在の美しいとは言いかねる渡良瀬橋の景観も打ち消すかのように大切なものとして心に響いてきます。
北関東道が全線開通した後はいつも渡良瀬川を高速道路の橋で渡ります。そのたび、渡良瀬橋の記憶と共に♪『渡良瀬橋』が想起されてきます。]]>
2024-01-17
前川道博
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http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/page/A2089.html
研究や教育の場で私がたびたび言及してきた「知識消費型社会から知識循環型社会への転換」、まさにその状況に直面しています。過去のものが物理的には遺物となり、そこに詰め込まれている知識(情報源)はデータとして継承することにより、価値あるものは失うことなく、生活を圧迫し続けてきた物理的媒体としての書籍から空間が解放されてフットワーク軽く、本来の知的活動に専念できる時代がやっとやってきたという思いが先に立ちます。一言で言うと「知識消費型社会の幕引き」が近づきつつあるという実感、大きな歴史的転換点に立っているという認識を何よりも強く意識化させてくれるのが「自炊」に他なりません。]]>
2024-01-26
前川道博
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http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/page/A2090.html
装丁で一番大きな対象となるのが表紙のデザインであることは言うまでもありません。さらには常に目線に触れることになる背表紙。さらには書籍の表に装着される帯。どう納得して自炊できるかは、これらの装丁に関わる対象をどう残せるかにかかっています。結局、私が選んだ方法は本文(中身)を自炊するだけでなく、表紙・背表紙・裏表紙に帯を含めてスキャンし、書籍一式として束ねること。これで課題はほぼ解決します。
書籍のクレジットの中には、極めて小さく控えめに「装丁者」の名前が記されています。書籍の陰の立役者と言っても過言ではありません。自炊することにより、改めてその装丁者の役割の大きさを認識してきました。]]>
2024-01-26
前川道博
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http://www.mmdb.net/usr/mae/hobo/page/A2091.html
うがった見方をすれば、美学的知見を映画に適用することにより、そこに仲間入りしようとしたスノッブではないかとの見方ができます。私にはそう見えます。
本来的に映画は、美学という狭い視座からではなく、多様な要素が包摂された多軸的な世界、旧来の芸術に対して芸術で包摂してはいけない、旧来の規範から外れたメディアです。映画と並行してテレビ放送、ビデオ映像が主流の時代となり、さらにはコンピュータ、デジタル系メディアが普及し、映画も含めテレビ放送やビデオも時代遅れのものとなりつつあるこの時代において、「映画」をどう捉えるとよいかが問い直されています。もうこの時代に及んで美学の権威におもねる必要はないであろう、と思います。浅沼さんの著作からは、改めて私たちに知識消費型社会(知識体系の権威が上位に君臨するヒエラルキー構造)から知識循環型社会への移行、という問題がいみじくも可視化されてきました。]]>
2024-01-26
前川道博