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郷土の英雄・安田義定

山梨県指定有形文化財・安田氏墓所のフォトライブラリー

安田氏: yasudaarchives
(登録日: 2006/10/10 更新日: 2021/04/10)


 安田義定(やすだ よしさだ)は、平安時代末期の源平合戦で、源義経と共に平家を討ち、鎌倉幕府の礎を築いた甲斐国(山梨県)の勇将です。また遠江守として遠江国を支配しました。
 安田義定 長承3年3月10日(1134年4月6日)〜建久5年8月19日(1194年9月5日)

 義定は甲斐源氏の黎明期にあって、全国に名をとどろかした最初の有力な武将であり、源平合戦では、源氏軍の大将格として義経と行動をともにし、平家追討に大きな功績をあげ、源頼朝の鎌倉幕府創建に大きく貢献したのです。しかし、その最期は義定の台頭を恐れた頼朝の猜疑心のために、親子ともども謀殺され、同じく頼朝により謀殺された義経と同じ無念の運命をたどったのでした。
 郷里山梨では、甲斐源氏の末裔である武田信玄の功績の陰にかくれて義定の功績はあまり知られておりません。また、山梨市下井尻に遺された義定公主従の墓所は、県指定文化財として、立派な五輪塔があり、県下有数の規模を誇りますが、今では地域でも忘れられた存在となっています。このため、NPO地域資料デジタル化研究会では、郷土の大切な記憶として関連事績をまとめることとしました。
(NPO地域資料デジタル化研究会デジタルアーカイブプロジェクト)

 源頼朝により滅ぼされた安田義定主従の墓所は、山梨市下井尻、雲光寺にあり、県指定有形文化財となっている。義定は、保元3年(1158)安田館の鬼門方向にあたる井尻の地(現在の山梨市下井尻)に菩提寺として、雲光寺を開創した。また、後に義定が遠江守に任ぜられてから、元暦元年(1184)安田一門の菩提寺として放光寺(塩山市藤木)も開創している。ともに「光」が菩提寺のキーワードとなっている。
 墓所前に山梨県が立てた「安田一族之墓 山梨県」の墓標がある。墓標の側面には次のように刻まれている。
 『昭和一六年十二月十五日建之』 
 『義定ハ源清光ノ男ナリ源頼朝ヲ援ケ平氏ヲ討チ遠江守ニ任ス建久五年八月故アリテ頼朝ニ攻ラレ自刃シ父子此處ニ■(外字ホオム)ラル後雲光寺殿故州刺史源法光大禅定門ト謚ス貞治二年十一月武田氏供養塔ヲ建ツ』

また、墓標の隣に「県指定有形文化財 安田氏五輪塔付宝篋印塔」の由緒掲示板が建てられていて、以下の内容が記されている。

『県指定有形文化財 安田氏五輪塔付宝篋印塔 昭和四十六年四月八日指定
山梨市下井尻673 雲光寺所有
 この三基の五輪塔は甲斐源氏の雄安田義定父子の墓標で、中央が義定、向かって左が義資、右が義季のものと言われている。(添付写真参照)
 義定は源頼朝と共に平氏を討ち、遠江守に任ぜられ、広く峡東地方を所領としたが、謀反の廉で建久五年(1194)頼朝に攻め滅ぼされた。
 各塔は下部から地・水・火・風・空の五輪を象徴している。最上部の空輪は平安調の団形、風輪は中央塔が桝形で他は平底で腰の深い椀形を示す。
 火輪の屋根の勾配はゆるやかで反りが深く、軒巾は塔全体のつり合いから、やや大きいと思われるが、一種の軽快感を与える効果をもっている。水輪は球状体の上下を切り背が低いので重量感を受ける反面、安定を増す要素ともなっている。
 三基とも水輪の四面に梵字が刻まれており、鎌倉中期の代表作として石像美術上貴重な構造である。
 宝篋印塔は基礎に「貞治二年(1363) 卯十一月 武田氏・・・(他不明)」があり、武田信成が安田一族のため建立したもので、法要の事実を伝える有力な史実と言える。
 山梨県教育委員会』
 
(25件)
01 雲光寺参道入口 02 雲光寺境内と本堂、庫裡 03 雲光寺境内と本堂、庫裡 04 山梨県が設置した墓標
05 山梨県が設置した安田一族の墓標 06 県指定有形文化財の掲示 07 山梨県が設置した安田一族の墓標 08 山梨県が設置した安田一族の墓標
09 安田一族墓所の全景 10 安田義定父子の墓標である五輪塔 11 安田一族墓所内の全景 12 安田一族墓所内の全景
13 安田義定公の五輪塔 14 安田義定公の五輪塔のうち水輪 15 武田家法要の宝篋印塔 16 墓前の香花台(左側面)
17 墓前の香花台(右側面) 18 山梨県指定有形文化財・安田氏墓所のフォトライブラリー 19 雲光寺の全景 20 雲光寺の全景
21 雲光寺本堂 22 雲光寺の本堂 23 山梨県指定有形文化財・安田氏墓所のフォトライブラリー 24 安田義定父子の五輪塔
25 安田義定父子の五輪塔

三カ所存在する安田義定公廟所


 山梨県の指定文化財となっている山梨市下井尻、雲光寺「安田義定一族之墓」以外にも、「安田義定廟所」と称する史跡が山梨市と甲州市に2カ所存在する。安田義定公の墓は3カ所存在することになり、そのことが地域の人々の安田氏に対する敬慕の念を表していることになる。

 その1つは、山梨市が昭和51年3月31日(旧牧丘町時代)に指定文化財とした「小田野山城址と安田義定廟所」。「安田義定廟所」の所在地は同市牧丘町西保下(城下地区)にある。雲光寺略史に「義定公は建久5年8月、小田野城下(現在の山梨市牧丘町西保下)で戦ったが、頼朝の大軍に衆寡敵せず8月19日小田野城下に倒れた。」と記されている通りの場所にある。

 安田義定廟所は、安田義定の要害城址である小田野山(882m)の南麓にあり、大字西保中に通ずる県道西保線(旧秩父裏街道)の脇にあり、鼓川のほとりに建立されている。宝篋印塔が置かれ、その隣に、仏教の護法善神である「天」の諸尊十二天のうち、「日天」「月天」の石碑が建立されている。
 廟所の由緒書きは以下の通りである。
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安田義定廟所 牧丘町指定文化財(昭和51年3月31日指定)
小田野山は標高882米、甲斐源氏安田義定の要害城址である。
義定は源頼朝のため建久5年(1194)8月この地で滅亡。
この宝篋印塔は義定と一族をまつる廟所で石塚という。
(牧丘町教育委員会)
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 この宝篋印塔の建立の年代は不明だが、その様式から足利時代のものではないかといわれ、供養のために建立されたものと見られる。
 小田野山は鎌倉時代の初期、甲斐源氏の一族である安田義定の要害城であった。標高882mの頂上には本丸があり、二の丸には雌雄の竜石、三の丸には蔵王権現の祠が残っている。

 また、この廟所から県道西保線をわずかばかり西進した小田野山麓の道路沿いに、地元の人が通称「腹切地蔵さん」と呼ぶ石仏がある。地元では、安田義定の生害の地といわれている。安田義定公を供養する腹切地蔵は、胸から上が切り取られている特異な形をしている。その両側に地蔵尊と六地蔵尊が祀られている。

 二つ目の安田義定公廟所は、甲州市塩山藤木、高橋山放光寺にある。安田義定公が平安時代の元暦元年(1184年)、一之瀬高橋地区の法光山高橋寺をこの地に移して建立した寺。この年は、源義経公とともに源平合戦・摂津国一ノ谷の戦いで勝利した年にあたる。開山は賀賢上人。本尊の大日如来坐像、不動明王立像、天弓愛染明王坐像の三尊と、仁王門に安置されている金剛力士立像は国の重要文化財となっている。
 廟所は、放光寺本堂の裏手にあり、独特の形をした五輪塔に「前遠江大守 放光大禅定門」と刻まれている。五輪塔の隣に「鎧大明神」と刻まれた石碑、小型の五輪塔が多数祀られている。
 

安田一族墓所へのアクセス


住 所:山梨県山梨市下井尻693番地。
安田氏墓所への交通:最寄り駅はJR東山梨駅で下車、徒歩15分。
※アクセスマップはマピオン、グーグルなどの地図案内サイトで「山梨市下井尻」を検索してみてください。
 
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