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みんなの山梨アルバム「昭和天皇行幸」

分類: 催事 撮影地: 山梨県 撮影者: 中山梅三 撮影日: 不明
(登録日: 2006/11/19 更新日: 2018/01/30)


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1957/07/00 県庁前

 昭和32年7月8日(月)から10日(水)にかけて昭和天皇(裕仁)陛下が皇后陛下とともに来県されました。天皇陛下のご訪問は戦後3回目(昭和22年10月・昭和25年4月)大正11年10月のお出でも数えて4度目でした。
 当時の山梨日日新聞には7月5日から11日にかけて歓迎の準備から道のりの様子が連日記録されています。
 7月8日昼過ぎ、特別列車で甲府駅にご到着、「日の丸の小旗と群集で埋まった平和通りを春風寮から野呂川林道に向かわれた。両陛下のご入県は七年ぶりなので市内のお迎えはざっと五万人を数え、屋根の上、ロータリーのサクから木の上まで鈴なりだった。」(7月9日より抜粋)
 山梨日日新聞によるとその行程は以下のようでした。
8日(春風寮→野呂川林道→常磐ホテル)、9日(太平醸造→藤野木分校→御坂峠頂上→沖新畑国有林(ハリモミ林)→県立富士博物館→河口湖ホテル新館)、10日(富士山五合目→大月駅)
陛下は知事から県内事情をお聞きになり当時の天野知事の話として「陛下は麦作、養蚕、地方病についてもご心配の質問を寄せられたので、『麦の被害は幸い少なく、地方病も米作中心を多角作に切替えていけば防げるでしょう』とお答えした。」(7月9日より抜粋)とあります。
(写真番号 nua02550015b) 
 



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1957/11/00

 行幸の3日間はあいにく雨続きでしたが、天皇皇后両陛下はすべての日程を休むことなくこなされました。
 沿道で待つ人々にも考慮し、お車は予定よりもゆっくりと進まれたようです。
 当時の新聞には「天皇陛下」と「天皇さま」の両方の敬称で記事が書かれていて、当時の人々が天皇行幸によって、皇室を身近な存在として親しみをいだくようになった。そんな気持ちが行間にうかがえます。また、記事からは、多くの方がお車の通る一瞬でもと心待ちにしていたようすが伝わってきます。
(写真番号 nua03360006b)
 



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1957/07/00

[山梨県と天皇について]
 山梨県には大正天皇は明治45年3月、明治天皇は明治13年にお出まし頂いています。
 特に明治天皇の時代には中央線もなく、カゴにお乗りになって郡内から甲府、北巨摩と縦断されて長野県にお入りになったそうです。今の道路事情とは比べ物にならない小仏峠や笹子峠など、大変な道中ではなかったかと思われます。
 当時本県は毎年のように水害に悩まされ続けていましたが、明治天皇はそのことを聞き台帳面積二十九万八千町歩の帝室林野を山梨県に下賜なされました。いわゆる恩賜県有林で、大正6年このご恩にむくいようというので建てられたのが舞鶴公園内の謝恩碑です。
(写真番号 nua02550001b)
 


(5件)
01 天皇陛下を迎えて、日の丸の小旗と群集で埋まった平和通り 02 天皇さまのお車を迎えて熱狂する甲府市民 03 天皇さまのお車に手を振り身を乗り出す市民 04 旗を振る子どもたち
05 せいいっぱいおめかしした少女たち



(5件)
01 天皇陛下のお車を待ち並ぶ地域住民 02 雨の日は蛇の目傘で、ぬかる道を下駄で歩いて 03 水兵さんルックにおめかした男の子 04 高齢者席のおばあさん
05 わが子にも一目とお車を待つお母さんたち

中山梅三氏の作品について御存知の方、御意見のある方は御連絡下さい。

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