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みんなの山梨アルバム「吉田の火祭」

分類: 信仰 撮影地: 富士吉田 撮影者: 中山梅三 撮影日: 昭和30〜40年
(登録日: 2008/03/17 更新日: 2018/01/30)


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山梨県富士吉田市

世話人たちとそのちょうちん


吉田の火祭は、富士山の御山仕舞いと夏の終わりを告げる一大イベントの感がある。祭礼当日は、富士吉田市にある金鳥居から浅間神社へのゆるやかな坂道が人々で埋まるころ、神輿が練りあるいて御旅所といわれる場所に入る。それにあわせて、横たえられていた大型のユイタイマツが道の中央に建てられ、神事を終えた浴衣姿の若者たちによって決まった順番で点火される。そして家の前の井桁タイマツに火が点けられて、火祭は最高潮を迎えるのである。上吉田の浅間神社と、境内社である諏訪神社の例大祭であって、すべては世話人と呼ばれる役割の人々により年間を通して準備されている。
世話人はそろいの衣装を身につける。白のタボシャツを着て、ユカタを右肩を抜いて裾を端折って半幅帯に挟む。右肩からは斜めに鈴の紐をかける(鈴には麻縄と布の紐を二本通す)。頭は手ぬぐいで鉢巻、足元は白足袋とわらじばきである。
(写真番号 nua01960005b)
なお、火祭考察を一連の写真の後に記述しました。なお、写真には説明がついているものがあります。クリックしてご覧下さい。
 

タイマツ点火前

(7件)
01 井桁タイマツとは 02 参詣者や見物客 03 富士講の人々 04 井桁タイマツの積み方
05 神輿とルール 06 御山神輿が御旅所に入る 07 世話人の奉納したタイマツ

タイマツへの点火

(6件)
01 御旅所での神事 02 最初に点火されるタイマツ 03 世話人が休憩する様子 04 タイマツの作り方(ヤニ木)
05 燃えるタイマツ 06 奉納 富士吉田市観光協

燃えさかるタイマツ

(7件)
01 タイマツの言い伝えと「オキ」 02 大タイマツと小タイマツ 03 燃えるタイマツ 04 燃えるタイマツ
05 燃えるタイマツ 06 燃えるタイマツ 07 燃えるタイマツ

燃えさかる井桁タイマツと富士講の人々の宿泊所

(7件)
01 井桁タイマツ 02 井桁タイマツ 03 井桁タイマツ 04 井桁タイマツ
05 富士講社の人々の宿泊 06 御師坊の様子 07 マネキ

吉田の火祭周辺

 火祭が開催される現在の富士吉田市上吉田周辺は、江戸時代から高冷山間地であるにもかかわらず多くの人々が暮らしていた。ここは静岡(駿河の国)と山梨県内(甲斐の国)の流通の中継点であり、富士山の登拝者の準備拠点であったのである。16世紀には「東町之分」「西町之分」と屋敷割帳にあることから、富士山に向かって伸びる道を挟んで南北に連なる景観の街で、屋号から現在に続く御師の家(富士講社の人々の宿泊所)を中心とする集落が形成されていたようである。吉田の火祭は現在、この上吉田のまちの南側に位置する諏訪神社と北口本宮富士浅間神社の祭礼である。
 祭日については太陽暦が採用される明治6年以前は殆ど旧暦の7月21日・22日に行われていた。そしてこの祭礼の後富士山の「山仕舞い」となった。このことを意識して、現在は約1ヵ月後の新暦の8月26日・27日に祭日が決定されたと考えられる。
 富士の御山の麓の祭礼にふさわしく、通常の形の明神神輿が通り、その後富士山型の神輿を通すという二つの神輿が継承されてきている
 また開催日はにぎやかで、例えば19世紀には奉納相撲のほか博奕(ばくち)・芝居など様々な興行も行われた事があるという記述が残っている。
 火祭の歴史の考察には富士山信仰の歴史や諏訪信仰との関連などが必要で、それは別にまとめる必要があるだろう。
 中山氏の一連の写真が着々と営まれてきた市民の暮らしを思いやるきっかけになると嬉しい。

参考資料 吉田の火祭(富士吉田市教育委員会)ほか

中山梅三氏の作品について御存知の方、御意見のある方は御連絡下さい。

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NPO法人地域資料デジタル化研究会「みんなの山梨アルバム」アーカイブ担当