[ 撮影者(中山梅三)へ戻る | ←← | →→ ] [ 分類(生活) | 撮影地(根場) | 撮影日(昭和30年代前半) | 撮影者(中山梅三) | 登録日(2005/12) ]

[NPO法人地域資料デジタル化研究会のページに戻る]

みんなの山梨アルバム「災害前の根場地区の見事な生活改善」

分類: 生活 撮影地: 根場 撮影者: 中山梅三 撮影日: 昭和30年代前半
(登録日: 2005/12/14 更新日: 2018/01/30)

住民自らが道普請(写真番号 nua03010001b)


→画像表示 [ Lサイズ ] [ オリジナル ]
山梨県南都留郡足和田村根場

 富士北麓、西湖北岸に位置する根場地区は昭和41年、台風26号の集中豪雨によって発生した山津波に襲われ、「全戸41戸のうち9割が全半壊、あとの1割も床上浸水という壊滅的被害を受けました。集落丸ごと土砂に覆われ、家ほどの大きさの石に押しつぶされ、被害を受けなかった住民はいませんでした。根場地区では人口235名のうち死者・行方不明者63名にのぼり、生活基盤も財産も奪われてしまいました」(3)。「4戸の家族が全員死亡し、災害孤児となった子どもも6人いました」(6)。
 「生き残った人々は、今まで住んでいた土地が将来にも危険性があると後世のために先祖代々の故郷を離れ、根場地区の南側にある青木ヶ原溶岩台地に集団移住しました。人々は富士山地域の恵まれた観光資源を活かした民宿を営なみ、生活を再建していきました」(7)。
 その後、被災した「旧根場地区には土石流災害を防ぐ施設が次々と設置されました。川の上流部に土砂を留めるための砂防堰堤、また流れを緩やかにし、曲がりくねった流れをまっすぐに整えるための流路工」(3)。安全を監視しながら、現在は茅葺き屋根の家の建ち並ぶ観光地・西湖いやしの里根場として蘇っています。
 
 このページの写真は昭和30年頃、災害前の根場地区の様子を撮影したものです。根場は北風を遮るように連なる御坂山地に囲まれ、眼前に霊峰富士を眺める茅葺き屋根が点在する集落でした。当時根場は、村の共有林における林業、炭焼き、養蚕、牧畜、鶏卵で生計を立てていました。住民は進取の精神に富み、県からの補助金と共有林の活用により得た資金で自らの手で道路を造りコンクリート舗装し、台所に改良かまどを入れ、電気・水道を引いていました。先進的地域作りが評価され、昭和29年読売新聞社は新生活賞最優秀賞を根場地区に贈りました。中山梅三氏が撮影した、生活改善が進んだ根場の生き生きとした日常の様子を御覧下さい。
 

昭和29年度 読売新聞主催・新生活モデル町村として厚生大臣賞を受けた根場の生活改善事業とは?


 『昭和30年から山梨県南都留郡足和田村根場となる根場は昭和29年は西浜村根場でした。事業報告書から実態を見ると、新生活運動は昭和26年7月頃から動き出しました。具体的には、
・簡易水道の布設工事が28年3月着工、5月完成、全戸に2箇所の水道専用線を設置
・地区内12箇所に消火栓の設置、2本のホースを各戸に届くように配置
・資材を地区で現物斡旋し、全戸が天火式改良かまど、タイル張り流し台などの台所改善
・風呂場を98%で完成
・大戸・囲炉裏の廃止=改良かまど利用で囲炉裏を廃止し、こたつに改善するとともに、入り口の小さい土間の暗い大戸を廃止し、全戸がガラス戸とした
・水路を完成し、水田開田を実施。これにより地区内の排水も良くなり、蚊の発生もなくなった
・2000mの農道を拡張・コンクリート舗装したのでリヤカーも70%まで普及、作業能率が増進
・地区中央にサイレンを設置し、毎日3回定時に吹鳴らし時間励行を図る
・学校屋上にスピーカーを設置し、ニュースと時報の他、慰安放送を行う
・地区で生産する雑穀と牛乳と卵を利用し、栄養価の高い簡易料理普及のため栄養士を招いて年3回講習会を実施し食生活改善を図る
・全戸一斉に電灯のメートル器設置
・冠婚葬祭の行事簡素化のために膳、椀百人分、什器百人分、結婚衣類和洋各1組ずつを備え、女子青年団員が管理
・迷信・因習の打破
尚、今後力を入れてやりたい仕事として動力を利用しての木材工業、農村婦人の文化向上促進、文化的基礎に立つ農家経営安定のための事業などを計画しています。」(8)
 
新生活モデル町村になった経緯

<財源>
 根場地区が近代的設備を取り入れることができたのは、先祖伝来の地区の財産である豊かな共有林の資源を売ったお金を財源と出来たからです。

 「根場地区が新生活運動に乗り出したのはを簡易水道を夢見て住民の気持ちがとけ合った昭和26年7月。総工費220万円で進められました。これと並行して各家庭の勝手の改善、住生活の改革、下水路の完成へと進み、さらに29年4月地区全額負担による総工費70万円で5キロにおよぶ電話線を引き地区に公衆電話を設けたことで、わずか2年余りにして住民の生活は全く一新したのでした」(8)。

 「簡易水道の総工費は220万円ですが、県からの補助金は12万4千円。他に地区から1戸当たり5万円を補助しました。このお陰で個人の支出は労力だけになりました。この巨額な個人補助は根場地区の共有林が財源でした」(8)。」

 「御坂山地では、およそ標高1400m以上が県有林で、原生林が帯をなしていました。また、標高1200m以下は民有地で、いわゆる里山として木炭用の樹木や若干の植林が交じっている程度でした。ほとんどの村人が作業をしていたのは、標高1400m〜1200mくらいの帯にある村(区)の共有林で、集落から約300mほど上にあたります」(2)。

「根場には戦国時代の昔から祖先が残してくれた300町歩(90万坪)の共有林(8)があり、ここで「茅葺屋根に使用する茅や酪農用のわらなどを採取し、炭焼きなどに使う雑木を集め、建築用資材として出荷する杉・桧などのを切り出して」(2)、現金収入を得ていました。

 「部落(ママ)経費は財産処分の売上金が充当され、昭和25年以降部落費の定期的徴収は行っていない。区有林約30町歩は全面積が人工林で、樹種は松が多く、杉は少ない。部落は植林や下刈りに人夫を毎年各戸から4~5人集めているが、この出人足にも男一日1000円、女600円の日当を支払っている。(中略)イッケシュ(同族組織)の祠の修理などのさいにも区は建材などの援助を行っている。部落は急峻な斜面に集落しているが、部落内の道路は全面舗装され、各所に街灯が設置されている。4、5年前に新生活運動の一環として各戸の台所を改善したさいにはその費用の一部も区が負担するなど、従来から区自体がかなり積極的に事業を行い、大正期において部落の「共進図書館」を教場に開設したほどであった」(6)。
 
<人間性>
 生活改善を実現させた根場地区の住人は以下の様に、海外の知識も求め、進取の精神を持ち、自らより良い生活を実現する方策を考えて実行、生活を豊かにしていく人々でした。

 「かつて西湖集落の枝村とされた根場には四十数戸の世帯があった。ここでは、耕作地や村の共有林など、限られた財産で暮らしていくために、分家を出すことは禁じられていた。次男、三男などは、学識を身に付け、他の地区に出て行った。その中で成功したものが、寺子屋に書籍を寄贈したという。70年以上前(2006年時点)、この山深い里で、マルクスやトルストイ、ゲーテなどに触れているというから驚きである」(2)。

 「この村(=長浜・西湖・根場・大嵐地区によって形成されていた足和田村)は教育の熱心な村として古くから知られていた。当時(昭和20年ころまで)義務教育は小学校6年生までで、他の村では多くこの時点で学校とは縁切りになったが、この村では尋常小学校に併設されていた高等小学校への進学率は90%もあって、さらに2年間学校と縁をつなげたものが多く、また河口湖町に高等3年の補習校があったので、高等科2年を終えたもののうち50%がここへ通った。」(7)

 「ある大手観光業者より耳寄りな話が持ち込まれたことがあったが、住民会議はこれを拒んだ。村民自身が如何に村を経営してゆくかという点に関して村民の良識がよく働いていた」(4)。

<団結力>
 根場地区では親類や同族のつながりが強く、お互いに助け合って暮らしていました。しかも階級制度がなく、平等な権利が守られていたと考えられます。

 「郡内地方では、親類の中の本家を『オオヤ』、同族の一団を『ヂルイ』と呼びます。また、本来、『ヂルイ』とは男系の家々の結合であり、対して、男女双方にわたる近親関係を『オヤコ』と呼んで区別します。
 西湖、根場地区では、この『ヂルイ』を、『イッケ』または『イッケシュ』と呼びます。この『イッケシュ』はそれぞれ守護神を持っていて、それを『イワイガミ』としていました。根場地区には『稲荷(イナリ)』(4軒)、『不動(フドウ)』(8軒)、『八幡(ハチマン)』(13軒)、『四所(ヨトコロ)』(16軒)という4つ一家衆(『イッケシュ』)があり、秋祭りや共同作業を行っていました。
 『イッケシュ』を形成している『オヤコ』の結びつきは非常に強く、『オヤコ』内での吉凶に際しては、家中総出で助け合いました。この相互扶助が典型的な『結い(ゆい)』です。
 また、根場地区では、早い段階から、集落としての助け合いやルールの徹底がなされていました。このことは、村中総出で行われた茅刈りや茅葺きなどからもよくわかります。」(2)

「根場の場合、同族についてはこれをイッケ、またはイッケシュと呼ぶ。同族は各自の守護神をもち、これをイワイガミという。稲荷をイワイガミとするのを稲荷イッケ(また稲荷イッケシュ)とし、根場には、不動、八幡および四所(よどころ)の4個があり、最高15戸、最小は4戸の族団を擁し、それぞれ秋祭を決めて施行している。ただ秋山村などと比較すればその結合ははるかに緩く、本家のヒエラルキーなどは全く存在しない。その一方、戦時中官製の隣組も作らされたが、結局何も昨日せず無実と化してしまったが、それは上述のオヤ・コが一貫して強力に機能していたためである。オヤ・コといえば「生みの親」「生みの子」のオヤコと聞こえるが、根場のは「近親」の意味に近い。根場のオヤ・コは単純な近親ではなく、家父長の立場で決められていることが多く、また、しばしば世代を越えて継続している。もっとも緊密なオヤ・コ関係をイチオヤコといい、吉凶につけて家中総出で助力しあう。」(4)

参考資料(本ページを説明文内の数字は参考にした資料の番号です)


参考資料

(1) 足和田村役場企画振興課:「村勢要覧’82 あしわだ」、昭和57年10月1日

(2) 「ふるさと」編集委員会:中学校副読本「ふるさとー台風26号災害からの復興のあゆみ」、富士河口湖町、2006年10月

(3) 池谷 浩:「足和田土石流災害から学ぶー我が国の土石流対策の起源となった災害」、足和田災害復興50周年記念シンポジウムにおける講演、平成28年9月25日、於:富士河口湖町立西浜小学校体育館

(4) 小川 徹:社会形態としての村落景観ー関東山地南部地域の場合ー、駒澤地理/ 駒澤大学文学部地理学教室, 駒澤大学総合教育研究部自然科学部門 編、1994-03 p1~15、
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/16249/KJ00005113125.pdf#search='社会形態としての村落景観'

(5)  国土交通省中部地方整備局富士砂防事務所:「基礎知識 足和田土石流災害」、FUJI SABO通信 ふじあざみ55号 p2、平成17年7月25日
http://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/jimusyo/fujiazami/fujiazami_55/fa55-2.html

(6) 喜多野清一、正岡寛司編著: 「家」と親族組織、第3章 正岡寛司、田中滋子、藤見純子:オヤコとイッケシュ ー山梨県南都留郡足和田村根場ー 、早稲田大学出版部、昭和50年2月25日

(7) 足和田村役場企画進行課:村勢要覧‘82「あしわだ」、昭和57年10月1日

(8) 読売新聞、昭和30年3月12日

(9) 川上勝晤「ある記録」、KAWAKAMI FILM

(10) 長浜老人クラブ 文協 郷土史研究部:昔の祝言、2002年7月15日
 
(110件)
01 青木ヶ原樹海 02 根場地区からの景色 03 西湖 04 西湖湖岸
05 ボートがつながれた西湖湖畔 06 ボートが出発する西湖 07 イワイガミ 08 家
09 根場地区から富士を眺める 10 根場地区から西湖を望む 11 茅葺き屋根と富士 12 夕餉
13 茅葺き屋根の家 14 茅葺き屋根の家 15 茅葺屋根 16 茅葺き屋根
17 夕餉の頃 18 茅葺きの家 19 秋の根場 20 茅葺屋根の家
21 茅葺屋根 22 茅葺屋根 23 根場の冬景色 24 雪の積もる茅葺屋根
25 家を守る 26 お留守い 27 子守り 28 おばあちゃんと待っていようね
29 農作業 30 畑仕事 31 農作業も共同で 32 農作業に汗を流す女性達
33 やれやれ 34 一段落 35 もし木集め 36 立ち並ぶ茅葺き屋根の家
37 お手伝い 38 学校の後も働く子ども達 39 お手伝い 40 身体より大きなかごを背負って
41 お手伝い 42 小さくても働き手 43 子どもも働き手 44 牛を連れて
45 家へ 46 小さなお母さん 47 道で遊ぶ子ども達 48 子守り
49 縁側に並ぶ子ども達 50 こどもたち 51 庭先で遊ぶ子ども達 52 根場の子ども
53 おやつ? 54 にこにこ 55 小路を行く少女達 56 小路を行く少女
57 遊ぶ子ども達 58 片手に剣、片手に棒。 59 男の子の遊びの定番、相撲 60 相撲
61 遊ぶ子ども達 62 酪農 63 根場酪農組合牛乳集荷所でお疲れ様 64 根場酪農組合牛乳集荷所
65 根場酪農組合牛乳集荷所 66 牛乳を集荷場へ届ける 67 牛乳を運ぶ 68 養鶏
69 干し椎茸作り 70 水道 71 皆で普請した道 72 石畳の坂
73 水道 74 水道 75 水道 76 生活用水の確保
77 水道は便利 78 便利で楽しい水道場 79 近代的な明るい台所 80 指導員?
81 消防の指導員? 82 消防ホースの設置 83 道端で話し合う人達 84 道普請
85 石を集めに 86 石を取りに 87 一緒に行こうね 88 行きはよいよい
89 さあ行きましょう 90 大勢集まって石集め 91 西湖湖岸で石を集める 92 この位背負えばいいかな
93 帰りは怖い 94 住民自身で道普請 95 「ご苦労様」「子どもをお願いします」 96 重かったね
97 石積みは技術の見せどころ 98 道普請 99 セメントを運ぶ 100 頑張って
101 力持ち 102 やれやれ 103 子どもを預かってくれてありがとうございます 104 仕事の間に授乳
105 はいはい、お利口にしていたかい 106 写真を撮るならちょっと待って 107 ファッションショー 108 明るい笑顔
109 働きやすい衣服 110 からさん(=もんぺ)はいて、はいポーズ

中山梅三氏の作品について御存知の方、御意見のある方は御連絡下さい。

[ 撮影者(中山梅三)へ戻る | ←← | →→ ] [ 分類(生活) | 撮影地(根場) | 撮影日(昭和30年代前半) | 撮影者(中山梅三) | 登録日(2005/12) ]
[ ホーム| ]
NPO法人地域資料デジタル化研究会「みんなの山梨アルバム」アーカイブ担当