「横浜につながる絹の道展」から


記録日: 2009/05/27 神奈川県横浜市

「開国博Y150」横浜開港150周年記念テーマイベントの記憶をたどる

 横浜開港150周年記念テーマイベント「開国博Y150」は2009年4月28日から9月27日まで、神奈川県横浜市の特設会場で開催されました。主催は横浜開港百五十周年協会、横浜市など。その記念テーマイベントとして、絹の道都市間交流連携会による「横浜につながる絹の道展」〜絹がつむいだ「ひと・まち・文化」〜が横浜赤レンガ倉庫1号館で開催されました。
 幕末の開国と安政6年の横浜開港により、日本は世界との貿易を開始しました。特に日本の輸出品として生糸への需要が高まり、国内で生産される生糸のほぼ全量が横浜に出荷され、横浜港から欧米に向けて輸出されるようになりました。

 江戸時代末期には養蚕地帯として陸奥(福島県、宮城県、岩手県、青森県)、出羽(秋田、山形)上野(群馬)、武蔵(東京、埼玉)、信濃(長野)、甲斐(山梨)、飛騨(岐阜)などで生産が行われ、織物業も発達して、生糸や織物は、主に京都、江戸に向けて出荷されていました。
 ところが、横浜開港により、生糸製品の輸出が活発になると、国内の養蚕製糸地帯は生糸の出荷先を一斉に横浜に集中させ、横浜に向けて生糸を輸送する道(陸運・水運)が確立していきます。これが後に広義での「絹の道」と呼ばれることとなりました。
 生糸が運ばれた道は養蚕地帯が広大であるため、甲州街道、中山道、奥州街道、町田街道、利根川水運、富士川水運などさまざまなルートがありました。最終的には国内の主要産地となった長野、山梨、群馬、埼玉西部の生糸は八王子から横浜をつなぐ町田街道に輸送が集中したため、4産地と八王子ー横浜をつなぐ道(陸路)を狭義の「絹の道」と呼ばれています。
 明治末期になると、各地に鉄道が開通し、それまでの大八車、馬車など陸路輸送は全面的に鉄道に切り替わっていきました。

 横浜へ送られる生糸は高値で取引されることから、農家の換金作物として主役の座を占めるようになりました。各地の養蚕や生糸加工の製糸業が大きく発展し、農村経済を潤しました。シルク産業の確立と欧米への輸出による巨額の外貨獲得は、横浜を起点とする日本の近代国家への道を拓いたのです。
 この近代国家への原動力となった養蚕を大切な記憶として継承するため、皇室におかれては皇后陛下が、皇居の紅葉山御養蚕所で「皇后御親蚕(こうごうごしんさん)」として、蚕を飼育されておられます。国内の農家はほとんど養蚕をやめている中ですので、皇室が最後の養蚕農家となるのかもしれません。

 生糸産地と横浜港を結ぶ「絹の道」は、輸出品の生糸を運搬するばかりでなく西洋文明を取り入れる道でもあり、生活様式や通信、娯楽など文化が横浜から各地に波及していきました。「横浜につながる絹の道展」では横浜を起点とする絹の道の歴史を回顧し、将来展望を紹介しました。

 「開港・開国Y150」の開催に先立って、2008年10月、日本の近代化期に生糸の産地や交易路だった6都県の37団体が、「絹の道都市間交流連携会」を設立しました。生糸が横浜港から輸出された歴史を踏まえ、横浜開港150周年に合わせたイベント会場に共同参加し、各団体が週替わりで資料展示や絹製品の販売を行う絹製品をアピールしました。
 連携会に参加したのは群馬、埼玉、長野、山梨、東京、神奈川六都県内の三十六自治体。

 その後、「横浜につながる絹の道展」の主催団体は解散し、展覧会の貴重な資料も残されていないようです。このため、NPO地域資料デジタル化研究会では当時の展覧会場で記録した資料を非営利の教材用デジタルアーカイブとして記憶に留め、公開いたします。日本の養蚕、製糸の歴史に関心ある方々に活用していただきたいと希望いたします。
 

「開港・開国Y150」とは

「開港・開国Y150」とは

 1859年(安政6年)6月2日、江戸幕府は日米修好通商条約に基づき開国し、横浜港が開港した。その後、生糸貿易の中心港として、また、京浜工業地帯の工業港、東京の外港として大きく発展した。
 横浜市では横浜開港150周年記念事業として、「開港・開国Y150」を開催した。
 「開国博Y150」は未来への「出航」をテーマに、その歴史や魅力を紹介する博覧会として開催された。みなとみらい地区を中心としたメイン会場「ベイサイドエリア」、
 食やファッションなどの人気スポットが立ち並ぶ横浜駅周辺から山下・山手地区の「マザーポートエリア」、自然豊かなズーラシア近隣に広がる「ヒルサイドエリア」の3地区が会場となった。

なお、平成21年12月、横浜市開港150周年・創造都市事業本部は、「横浜開港150周年記念事業の総括について」と題する報告書を公開した。

「横浜開港150周年記念事業の総括について」報告書 平成21年12月、横浜市開港150周年・創造都市事業本部
(1件)
01 「横浜開港150周年記念事業の総括について」報告書 平成21年12月、横浜市開港150周年・創造都市事業本部

「横浜につながる絹の道展」パネル展示の記憶


記録日: 2009/05/27 横浜市

プロローグ〜絹がつむいだ「ひと・まち・文化」〜 
(絹の道都市開発交流連絡会によるビジョン提起)

1859年(安政6年)に開港した横浜港は、良質な日本の生糸や絹織物等を欧米諸国へ輸出する一大国際貿易港としての役割を担っていました。
とりわけ、幕末から大正にかけて、日本の主要な輸出品であった生糸、絹織物等はほぼ全量が、関東大震災後も国内の大部分が横浜港から輸出されていました。
信州、甲州、上州、武州などの養蚕地帯で生産された繭は、岡谷をはじめそれぞれの地で生糸や織物等にされ、前橋、八王子など各地に集積され横浜へ運ばれていたのです。
また、養蚕地帯から横浜につながる交通路では、生糸や絹織物の売買が行われる市場が形成されるようになり、上田、前橋、八王子、上溝(相模原)、町田などは交通路上の主要な市場として繁栄してきました。
こうした横浜への生糸や絹織物等の輸送とともに、横浜に伝搬した海外文化が、この路を経て国内各地に広がることになったのです。
生糸等の輸送や海外文化の伝播により、養蚕地帯から横浜につながる交通路上の地域は、物流・商業・文化といった観点で深いつながりをもっていましたが、第2次・第3次産業の目覚ましい発展と社会経済情勢の変化に伴い、その関係は薄れています。
少子高齢化、グローバル化、多文化共生などの新たな交流、ビジネスチャンスの創発が期待されている今、かつて生糸等の輸送や海外文化の伝播により構築されていた各地域のつながり「温故知新 ー歴史的経験ー」に学ぶべき時を迎えているのではないでしょうか?
 
(10件)
01 絹の道プロローグ 02 絹の道が運んだもの 03 絹の道を支えた人々 04 絹の道で伝わったモノや文化
05 絹の道がもたらしたもの 06 絹の道がもたらしたもの 07 輸出、輸入を支えた人々 08 絹の道の歴史的経緯を踏まえ、都市間連携の重要性を考える
09 横浜につながる絹の道マップ 10 横浜につながる絹の道マップ拡大図



幕末 絹の道を最初に拓いた人々


神戸大学付属図書館データ作成・神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 蚕糸業(14-155)によると
 中外商業新報 1924.12.24(大正13)に掲載された「世界に誇るわが製糸業」という記事に、横浜における生糸輸出の事始めが記されている。それによると、我が国の生糸輸出は、安政六年(1859年)甲斐の商人伏見屋忠兵衛が初めて横浜本町三丁目、芝屋(手塚)清五郎氏の手を介して英一番館ジャーデン・マゼソンに甲州島田造糸百斤を売込んだのがそもそもの始まりという。(※ジャーデン・マゼソンの跡地にはシルクセンター国際貿易観光会館・シルク博物館が設置されている)

一方、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 蚕糸業(11-017)東京朝日新聞 1923.2.21-1923.2.22 (大正12)
によると、我が国の生糸輸出の開祖は芝屋清五郎と云う人で、その人が安政六年伊太利人イソリキと云うものに、甲州島田糸を売込んだに始まると云われている、と伝えている。

 幕末に我が国が生糸輸出をはじめた頃は、横浜に入荷するのは甲州島田糸と上州前橋糸に限られていた。しかし、明治になると政府の殖産興業の掛け声により、横浜港に輸送が容易な関東、甲信の各地で養蚕製糸業が一斉に花開くこととなり、現金収入を求めて東日本東北地方にも養蚕が普及していった。

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中外商業新報 1924.12.24に掲載された「世界に誇るわが製糸業」より抜粋

(生糸輸出の始まり) 生糸輸出の振不振は我国にとって最も主要問題で直に国家経済の消長に深甚なる影響を及ぼすのみならず製糸業は紡績業等の如く原料なりその他のものを外国より輸入し只これを精製加工するに過ぎないような各種産業とは性質を異にし何等外国へ対価を支払うことなく輸出しただけ全部我国の収得となる点からしても実に各種産業中の覇王であるが斯くの如き盛況を呈するに至った跡を温ねて見るに生糸輸出の始め我国の生糸が始めて外国へ輸出されるようになったのはかの黒船来航の脅威によって鎖国の迷夢からさめ飜然開港の実を挙ぐるに至った安政以後のことである、
即ち安政六年甲斐の商人伏見屋忠兵衛が始めて横浜本町三丁目芝屋清五郎氏の手を介して英一番館ジャーデン・マゼソンに島田造糸百斤を売込んだのがそもそもの始まりでその後間もなく現在本邦生糸の最大消費国となって居る米国の需要を喚起し生糸輸出は次第に増加の機運に向った、しかしその頃の生糸は勿論今日のような器械糸ではなく養蚕家が副業として農閑を利用し座繰器で少量ずつ繰糸したものを仲買人の手に依って買集められ漸く五十斤または百斤に取纏めて輸出したものである

(洋式器械製糸の始まり) 明治四年小野組がミーラーというスイス人指導の下に東京築地入船町へ器械製糸を創設し信、磐、岩三国の小野組(井筒屋善三郎)取引製糸家より工女を募集し養成に努めた一方旧前橋藩でも同じくミーラーの教示を受けて製糸場を開設した、これが我国における器械製糸の嚆矢で翌五年政府においても仏人ブリューナーを招聘し上州富岡に器械製糸場を建て範を全国に示した、しかしてこれ等の各製糸場で養成せられた工女がそれぞれ帰国するに及んで明治五年信州南安曇郡小倉村の松沢床平次氏が二十五釜、更級郡笹井村の信央社四十釜、翌六年には諏訪郡平野村に二十釜乃至二百二十釜の器械製糸が約十ケ所ほど出来また福島県二本松にも小野組から資金の融通を受けて二本松製糸が開設せられ爾来生糸輸出の益々増大するに従い各地に器械製糸の勃興を見、遂に今日の如き世界の大製糸国となるに至ったのである
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神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 蚕糸業(11-017)東京朝日新聞 1923.2.21-1923.2.22 (大正12)より抜粋

(生糸輸出の順序)  生糸は日本の輸出貿易品の王様である。昨年中に輸出した生糸の額は六億八千余万円に達して居る。之を昨年の輸出貿易総額に対比すると約四割二分に当る。日本では生糸輸出の如何が貿易全体の盛衰を左右することになる。さて然らばこの生糸は何う云う順序を踏んで売込まれ貿易されつつあるのであるか。先ず生糸が横浜へ出るまでの順序から見ると、毎年五月中旬伊豆の松崎で開かれる春繭の取引を最初として、製糸家は各地で養蚕家から原料繭を買入れ、そして製糸する。製糸して生糸となったものを普通五百三四十匁宛集め一括となし、之に各自製糸家の商標を附した上で、□紙に包む。その包んだのを又普通十六集めて木の箱に入れる。之れが、梱で、更にその上を縄巻き□包みとして、運送屋に託し横浜の問屋に送り出すこうした梱が最近では日に二三□梱宛横浜へ入荷する。多い時には二三千梱ずつも入荷することがある。横浜は日本の生糸輸出の唯一の港であるから、輸出生糸は全部茲に集まることとなるが内地の機場で遣う所謂地遣いの生糸も、一応横浜を通るものが多い。従って横浜へは日本で出来る生糸の九割以上が、一応集まることとなる。

(生糸輸出問屋の開祖) その開祖は芝屋清五郎と云う人で、その人が安政六年伊太利人イソリキと云うものに、甲州島田糸を売込んだに始まると云われている。この売込問屋は製糸家と輸出商との間に介在し、生糸売買の仲介をするばかりでなく、製糸家に製糸資金を前貸しするのでその勢力実に絶大なものがある。
そして又この問屋は製糸家と輸出商との間にあって売込の仲介を為すことによって利益することよりも、製糸の資金の融通を為し、その利鞘をはねることによってより多く儲けると云うものもある。兎に角地方製糸家は長年の取引先たる問屋から資金を仰いでいる関係上製糸の出来次第之を契約のある問屋に送荷して来る。そこで問屋はその梱を解いて一々秤量しで目方を見る。この秤量を俗に倉入目方と云って最初荷主が書入れて送った入日記の目方と照合せ、倉入案内書と云うものに書入れ、荷主に送ってやる。一方受取った生糸は問屋の倉に入れて置き荷主別に糸の種別、括数、重量等を詳しく売込帳に記入して、さて輸出商に向けて売込の交渉を始めるのである。
 


絹の道の桑都として栄えた日本遺産「桑都八王子」について


東京都八王子市は令和2年6月、文化庁の日本遺産「霊気満山・高尾山〜人々の祈りが紡ぐ桑都物語〜」に認定された。
幕末から明治期にかけて、横浜から生糸輸出が盛んになると、甲州街道の八王子宿は、絹産業を基盤に甲州道中最大の宿場町へと発展した。群馬、埼玉、長野、山梨の大量の生糸が八王子宿を中継して横浜に出荷され、また八王子周辺の産地から生糸が八王子宿に集められ、八王子は「絹の道」の結節地として発展した。
 八王子の絹産業の発展は「多摩織」という伝統工芸品を生み出した。「八王子八景」のひとつ、「桑都の晴嵐(せいらん)」には、桑畑が広がり養蚕が盛んに行われ、市が賑わっている様子が詠まれています。こうした歴史や伝統から八王子は“桑都”として日本遺産に認定された。
参照サイト 八王子市日本遺産「霊気満山 高尾山 〜人々の祈りが紡ぐ桑都物語〜」公式ページ
https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/takaosann/p026876.html
 


日本の絹の道が終わったのはいつか?


 横浜開港後、生糸は日本を代表する輸出品で昭和の中期まで外貨獲得の主役だった。しかし、昭和も後半になると、国内の養蚕-製糸-絹織物産業が衰退し、生糸取引も低迷した。このため1998年10月1日、生糸を売買する横浜生糸取引所が、繭を売買する前橋乾繭取引所と合併し、横浜商品取引所が発足した。
 横浜生糸取引所の売買高は70年にピークをつけ、97年にはその3分の1に落ち込んでいたという。
 横浜商品取引所の取引も低迷し、2006年4月、東京穀物商品取引所に合併された。このとき1894年(明治27年)開設の「横浜蚕糸外四品取引所」を源流とする112年の歴史に幕が下ろされた。横浜と全国の生糸産地を結んでいた「絹の道」が閉鎖された瞬間でもあった。
 東京穀物商品取引所が引き継いだ生糸取引は2009年に終了。東穀取自体も2013年に解散した。(出典:日本経済新聞web版ニュースなこの日、2018年9月28日付け)
 

その後の日本の養蚕とシルクロード再建


 日本の養蚕、製糸業は21世紀にはいるとほぼ絶滅危惧の状態となったいった。そのなかで、JICA−国際協力機構は日本が培ってきた養蚕の先進技術を発展途上国に移転するためのプロジェクトを行った。
 日本の生糸生産は、明治時代の近代化を支えたが、昭和をピークに衰退した。しかし、それまでの長い歴史のなかで蓄積された養蚕の技術と知識が海を渡り、発展途上国の農民の生計向上に大きな役割を果たした。
 その一つがJICAと東京農工大学の草の根技術協力事業で、2009年よりウズベキスタン共和国で、「ウズベキスタン共和国シルクロード農村副業復興計画−フェルガナ州における養蚕農家の生計向上モデル構築プロジェクト−」 を行っている。
 ウズベキスタン共和国のフェルガナ地域は、千年以上の 絹生産の歴史をもつ古代シルクロードの交差点にあたる。その養蚕業を支えているのが、フェルガナ州。アトラス は「絹の王様」という意味をもつ,ウズベキスタンでつくられるとても美 しい絹織物で,地元の女性の間で世代を通して受け継がれています。
 しかし,ソビエト連邦の崩壊は農村地帯の地域経済に大きな打撃を与え, 伝統的な絹産業は停滞した。東京農工大はウズベキスタン共和国の国立養蚕研究所とビジネスウーマン協会と協力しながら、日本の養蚕製糸技術による支援を行った。また、2013年より新プロジェクト「ウズベキスタン共和国シルクロード蚕業復興計画−辺境農村における副業収入向上のための技術移転モデルの確立−」を行った。
 JICAはインドでも養蚕普及強化プロジェクトを実施した。計画はインド政府の中央蚕糸研究訓練所(CSR&TI)と提携し、2002年〜2016年にかけて、
インドの繭生産の90%以上を占める南部の3州(カルナタカ、アンドラ・プラデシュ、タミル・ナドゥ)で日本の先進養蚕技術を普及させるため、専門義打つ普及員を派遣した。プロジェクトの目的は、農業開発/農村開発、貧困削減のために養蚕製糸業を育成することにあった。
 インドでは、生糸の国内需要が非常に高いのに、高級絹織物に使う高品質の二化性生糸のほぼ全量を中国からの輸入に頼っていた。輸入に圧迫される国内生糸産業を育成強化するため、JICAの技術支援により、インドに日本の二化性養蚕技術の導入がなされ、
生糸生産によって農家の所得が向上することが実証された。3州の農家を対象に、採桑、育蚕、病理、製糸などの技術指導を行った。
 技術指導のうえで現地の宗教、カースト制度などの障害があった。農家の多くはヒンズー教だが、牛を神聖視するため、邪気祓いのため牛糞を家の壁や床に塗る風習があり、不衛生きわまりない状態だった。技術指導では蚕室を別棟とし、噴霧器による蚕期ごとの徹底した消毒の励行、家族の牛との同居の禁止など基本事項の徹底から始まった。宗教とカースト制度のもとで、養蚕農家の殆どがヒンズー教で殺繭の殺生を禁じられているため、製糸業を営む者はイスラム教と別れている。養蚕と製糸が断絶していることも今後の高級シルク産業への発展の障害となっているという。
(この項出典: 東京農工大学ウズベキスタン・プロジェクトホームページ、農工通信No.102「海外で喜びと感動に浸る」、JICA「養蚕普及強化計画」ホームページ
 

2022年現在 日本国内の養蚕の状況


 日本の養蚕、製糸業は21世紀にはいるとほぼ絶滅危惧の状態となったが、そのなかで、国内で養蚕を守っている代表者と言えるのは皇居において毎年、養蚕に取り組んでおられる皇后陛下である。皇居での養蚕は明治以降、歴代皇后に受け継がれる伝統行事となっている。
 日テレNEWS2022年6月11日付けweb版によると、皇后様は6月11日、皇居にある紅葉山御養蚕所で、今年初めて蚕の繭を収穫する「初繭掻き」をされた。
 皇后様は、飼育を担当する主任と話しながら純国産の蚕「小石丸」の繭をひとつずつ丁寧に収穫された。
 皇后様は「初繭掻き」に先立って、蚕にえさとなる桑の葉を与える「御給桑」などを行ってこられた。この養蚕の作業には天皇陛下と長女の愛子様も参加されていたという。愛子様は小学生の頃からお住まいで蚕を飼育しておられるという。
 
 一方、2022年現在の養蚕農家の活動状況をニュース報道などで確認すると2022年6月14日付け、上毛新聞♯GUNMAによると、群馬県富岡市内の農家が育てた春蚕(はるご)の繭の荷受け作業が13、14日、同市のJA甘楽富岡高瀬集荷場で行われた。群馬県オリジナル蚕品種「ぐんま200」を含む計約1.1トンをチェックし、安中市の碓氷製糸に運んだ。
 群馬県庁では、県は「ぐんまシルク」のブランド化を進め、市場競争力の向上を図るため、「ぐんまシルク認定制度」を制定し、ぐんままオリジナル蚕品種を使った高品位の生糸や絹製品を認定している。
 一方、2022年7月1日付け、下野新聞WEB版によると、 
栃木県那須塩原市では、「春蚕(はるご)繭」の出荷作業が7月1日、太夫塚(たゆうづか)3丁目のJAなすの塩那野菜集出荷所で行われた。かつて養蚕が盛んだった那須塩原市では、今も4軒の養蚕農家が生産を続けていて、出荷作業では生産農家が手作業で選別を行い、群馬県の製糸業者へ955キロを出荷した。
 那須塩原市と那須町は50年ほど前まで養蚕が盛んで最盛期は数百軒に上る生産農家があったが、生産者の高齢化や輸入品の増加で同地域の生産農家は4戸まで減った。現在でも繭の出荷は6〜10月に計5回行われ、中でも梅雨明けの前後に出荷される春蚕繭は1年で最も品質が高いとされている。

 中日新聞WEB版2022年6月21日付けによると、福井県内で唯一の養蚕農家である福井市足谷町の杉本百合子さん(82)の養蚕所で6月18日、繭の出荷作業が行われた。蚕の品種は糸が細くて丈夫で光沢がある「玉小石」。5月中旬に県外の研究所から約二万匹を仕入れ、蚕が繭を作る場所となる特製のネットで育ててきた。

 長野県では途切れた養蚕を復活させようと住民が復活へ挑戦を続けている。中日新聞WEB版2022年6月28日付けによると、長野県岡谷市の三沢区民農園蚕室で6月27日、住民らが約4万匹の蚕を蔟(まぶし)と呼ばれる四角い枠に移す作業「上蔟(じょうぞく)」を行った。
 同農園は、市内で約三十年前に途切れた養蚕を復活させようと、2014年から養蚕に挑戦している。市では、同農園で育てられた繭を、市内の宮坂製糸所で生糸にし、岡谷絹工房で製品化させる「オール岡谷産シルク」の開発が進んでいる。
 



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